
今回は、前回のこのお地蔵様の景色からのスタートです。


お地蔵様を過ぎると、街道は緩やかに右に曲がりながら上って行き、再び国道と合流します。
ここからしばらくは国道を進むことになります。
酒々井町から成田市に入りました。







国道から入った道は、一旦下ってからすぐに上りになります。
左にはトイザラスや教会が見えています。

トイザラスの手前に右に下っている気になる細道がありますので、ちょっと戻ってみます。

雰囲気的には間違いなく旧街道です。
右に行く道がありますが、後で紹介する「不動塚」へ通じる道です。

200メートルも歩くと上り坂になり、トイザラスの先に出ました。
この道は国道を整備する時に取り残されたようです。
ここでちょっと先ほどの旧道を右に入る道から、成田山にゆかりの旧跡に立寄りましょう。

「不動塚」と呼ばれる成田山発祥の地です。
ここは東国で反乱を起こした平将門を調伏すべく、朱雀天皇の命により京都神護寺の不動
明王を奉持した寛朝大僧正が天慶三年(940)に調伏の祈祷を行った場所とされています。
21日間の祈祷が終わった頃、平将門は討伐軍の平貞盛と藤原秀郷の軍によって討取られ
「将門の乱」と呼ばれた大乱は鎮まりました。


お堂の中には不動明王の石像が置かれています。
石像には昭和16年の紀年銘が刻まれています。

「成田山舊跡 不動塚之碑」と刻まれたこの石碑は明治17年(1884)の建立です。
乱が平定され、寛朝大僧正が都へ帰還する際に、神護寺より奉持してきた不動明王像
がなぜか全く動かなくなりました。
その時の様子を「新修成田山史」(成田山新勝寺編 P15)にはこう書かれています。
「兵乱既に治まりしを以て、僧正再び尊像を俸持して都に還らんとせしに、重きこと盤石の
如く、僧正未曾有の想をなし、合掌瞑目至心に黙禱せしに明王髣髴として告げ給わく、
『夫れ衆生は無辺にして、我が願も亦尽くることなし。儻し深信機熟の者あらば、処として
応ぜざるなし、我復び京師に還るを願はず、永く此の地に留りて東国の逆徒を鎮押し
渇仰の輩を利益せん』と。」
この話を聞いた天皇は大いに感動し、「新たに勝った」という意味を込めて、「神護新勝寺」の
寺号を与えてこの地に堂宇を建て、不動明王を祀りました。
これが成田山新勝寺の始まりとされています。
成田山発祥の地「不動塚」~お不動様の旅(2) ☜ ここをクリック



再び街道に戻ってきました。
並木坂上の交差点からちょっと進むと、また国道51号線と交差します。
この辺りは昔は「成木新田」といわれ、明治十七年の「下総國下埴生郡成木新田誌」には、
この道を「銚子街道」として次のように記しています。
等級 縣道
長 南方印旛郡伊篠ヨリ来リ成田町ニ達ス。延長七百七拾五間
幅 四間
並木 本道ハ首尾悉並木ニシテ、古松両側ニアリ。鬱蒼陰ヲナス。
形状 平坦
伊篠の松並木がずっと続いていたことから、この辺りの町名が現在の「並木町」となった
のだそうです。


国道を横切って100メートルほど行くと、右側に小さな墓地があり、その脇には「和算家
飯嶋武雄の墓」の標柱が立っています。
飯嶋武雄は安永三年(1774)に下総国金江津村(現・茨城県河内町)の生まれで、若く
して算法に長け、江戸に出て算法の私塾を開いていましたが、不幸にも失明して帰国し、
近郷を巡回して算法を教えていました。
並木町の大坂家が寺子屋を開き師として迎えた縁で、ここにお墓があるようです。
「算法理解教初編」の著作があります。


「デニーズ」「和みの米屋」の先の信号からは、黄葉した銀杏並木と「日本赤十字成田病院」
が見えています。
街道はこの信号を渡って進みます。


JR成田駅方面に向かうこの通りは、「一本松通り」と名付けられています。

しばらく進むと、丁字路の手前に「一本松跡」が現れます。
ここは前回に出てきた「伊篠の松並木」が続いていた所で、立派な松の古木が生えていた
のですが、残念ながら枯死寸前となったため、昭和51年に伐採されてしまいました。


一本松跡の碑の横に2基の石塔があります。
一つは馬頭観音で、安政五年(1858)のものです。
側面には「宗吾靈神」の文字が見えます。
「当時はまだ宗吾霊堂はなく、佐倉宗吾(木内惣五郎)の墓地に祠があったことから、宗吾
霊神としたのであろう。」 (「成田の史跡散歩」 P93)
もう一つの石碑は風化のため全く読めません。
「成田街道を通ってきた旅人はここまで来るとホッと一息ついたのである。成田に着いた
安堵感から松並木の木陰で一服し、旅の疲れを癒したことであろう。明治時代になると、
成田の旅館は参詣人の奪い合いから、旅館名を半纏に染めた番頭たちが、小旗を持って
ここまで出迎えにきたという。」 (「成田の史跡散歩」 P93~94)



街道は緩やかなカーブを描きながら続きます。
やがてJRの踏切が見えてきます。
この「成木県道踏切」の遮断機は途中で折り畳む、「屈折形遮断桿」が採用されています。
多くの場合踏切は、道の両側または片側から踏切道を長い棹で遮断する「腕木式」ですが、
道幅が広かったり変形道路の場合にはこの「屈折形遮断桿」が使われます。

上下線の線路に段差があり、線路が少し離れていますので、踏切の真ん中に安全地帯の
ような場所があります。(もちろん、危険ですからここで立ち止まることはできませんが・・・)
昔のこの踏切には「踏切番」がいて、ワイヤーに踏切の表示板をぶら下げた「昇開式」だっ
たのではないでしょうか。


だいぶ進んできました。
街道の下を京成電鉄の線路がくぐっています。
京成とJRはここで交差していて、前方に成木踏切を渡ってきたJRの線路が見えます。
線路をまたぐ橋は、難しい仏教用語の『「阿利耶」橋』といいます。


「阿利耶橋」を渡ると、「不動尊旧跡」の標識が立ち、地蔵堂が見えます。

ここは安政五年(1858年)に新勝寺の新本堂(現釈迦堂)が完成した時、その入仏供養の
行列が出発した場所です。
元禄十四年(1701年)の新本堂(現光明堂)の入仏供養の際は、先ほど寄り道した不動塚
から出発しましたが、その後この地が幕府直轄領となったため、約1.7キロ離れたこの地
に仮の安置所を設け、ここから出発したのが始まりです。


ここにも護摩木山の碑が並んでいます。

お堂の中は「道祖神」です。


左手にはニュータウンの一角が、正面には成田駅前の景色です。



成田駅に向かって進むと、左に大きくUターンのように曲がりながら、下る道があります。
ここは、「成宗電車」の線路跡です。
曲がり口には大師堂があり、「摩尼山国分寺 第二十九番 不動ヶ岡 苅分」と書かれた
木札が架かっています。(不動ヶ岡とは、この一帯の地名です。)
「成宗電車」は明治四十三年(1910)に成田山の山門前から成田駅まで、翌年には宗吾
門前までを結んだ電車です。
成田駅から成田街道を進み、この坂を下って現在の日赤病院の傍を通り、宗吾霊堂まで
伸びていましたが、昭和19年に廃線となりました。


もうちょっとで成田駅です。
この先は次回に。(15日にアップの予定です。)



①酒々井町と成田市の境界 ②国道と街道の別れ道 ③取り残された旧道 ④不動塚 ⑤飯嶋武雄の墓
⑥一本松跡 ⑦成木踏切 ⑧不動尊旧跡 ⑨成宗電車道