


前回の、倒れかかった道標の先をさらに登って行くと、途中に見過ごしてしまいそうな石段が
あり、その上に小さなお堂が見えてきます。
ここは「大崎の馬頭観音」と呼ばれています。

お堂の右側置かれた2基の板碑状の馬頭観音。
手前は明治二十九年(1896)、後方は明治二十七年(1894)のものです。
こちらには「馬車連中」と読める文字が刻まれています。
観音像を刻まない、文字だけの馬頭観音の多くは、愛馬の供養のために建てられることが
多いと言われていますので、急坂を馬で越えることが多かったであろうこの場所のような所
の独特な供養塔なのかも知れません。


昔はこんな風景がこの辺りで見られたのではないでしょうか?


隣のお堂には慈母観音像があります。
赤い布で隠れていますが、赤子をしっかり抱いています。


二つのお堂の間にたくさんの馬頭観音が集められています。
その中に ☞ が描かれた成田山への道標が隠れています。
俳句のような文字が見えますが、“あゝ楽・・・御利益・・・”以外は欠けていて読めません。
酒々井町のホームページによれば、裏面に天保十一年(1840)と記されているようです。

この ☞ マークは成田湯川駅の傍にある善導大師堂への道標にもありました。
ずいぶん昔から使われていた絵記号なのですね。

旧道の登り坂はまだ続きます。

坂を登り切ると再び街道は国道と合流しますが、すぐに右に別れて進みます。


国道と接する場所に「成田道伊篠の松並木跡」の説明板と、風化した木柱があります。
説明板にはこうあります。
「伊篠の松並木は、国道五一号線に沿った旧成田街道約八〇〇メートルの地域の松並木
であった。 通称杢之進並木といわれ、享保年中(一七一六~三五)佐倉七牧を支配した
代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられていたが、樹齢三〇〇~三五〇であることから、
年代が合わず、おそらくこれより早い時期に道中者の便を図って植えられたものと思われる。
昭和四十三年四月に県の史跡として指定された当時は、巨松三十六本が松並木を形成して、
街道の美観を誇っていたが、昭和五十年代になって、松喰虫の被害を受けて次々と枯れ、
昭和五十七年七月には県の指定が解除となり、昭和五十九年七月に町史跡指定に変更
された。昭和六十年十一月、最後まで残った二本も枯損し、その後町史跡指定も解除され、
今は史跡としての名称だけが残されている。」
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ところどころに植え替えられた松の木がありますが、本数もわずかで、桜の木の方ずっと
多く目立ちます。
街道をゆく旅人が腰をおろして一服した景色は、もう戻ることはありません。

朽ちかけた木柱の陰に、年代不詳の「宗吾道」と刻まれた道標があります。
上部にうっすらと ☜ マークが見えます。
成田街道は国道に合流することはなく、このまま並行して進みますが、この道標がある場所
から国道を横切る細道があり、その道を辿ると宗吾霊堂に行けたのかも知れません。
ここまで歩いてきた行程を、「千葉縣印旛郡誌」に収録された各村誌中に見える「成田街道」の
部分を、以下に抜き書きしてみます。
「香取は成田道と言ふ南方酒々井町より村の中央を貫き上岩橋村に至る長三町四十間幅四間」
(中川村誌)
「香取路成田街道と言うふは南中川村より本村西部字岩橋に至り安食道を分ち西北部を貫き
伊篠村の境に至る長十町十五間幅四間」
(上岩橋村誌)
「香取道一に成田道と言ふは南上岩橋村より村の中央を貫き成木新田に至る長十六町三十五間
幅四間」
(伊篠村誌)
これにより、「成田街道」は周辺の村々の中心的な道路で、7メートル以上の幅のある街道
であったことが分かります。

街道は、「伊篠の松並木跡」を過ぎ、国道に並行して近づいたり離れたりしながら成田に
向かって続いています。
やがて左側に5基の成田山護摩木山の石碑群が見えてきます。
この板碑型の碑には、「成田山 永代護摩木山 深川末廣講社」とあり、明治二十一年に
建立されました。
護摩木山とは護摩木になる杉を切り出す山のことで、山ごと寄進されるものです。


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この石塔は道標で、正面に「東 成田山 宗吾社 道」とあり、側面には「西 佐くら 酒々井 道」、
「左 しすゐ 停車塲 道」とある道標です。
ただ、裏面に「元禄元年 起■丸■講」と記された横に「明治三十二年建立」と記されている
ことの意味が分かりません。
明治二十二年は西暦1899年になり、これが建立された年であることは間違いないと思い
ますが、元禄~の部分は私の読み間違いなのでしょうか?
※ 後日酒々井町のホームページで調べたところ、この部分は「元禄元年起立丸万講」と
記されていことが分かりました。
明治三十二年にこの道標を建立した「丸万講」は、元禄元年(1688)に結成された講
のようで、この道標は「丸万講」ができてから178年後に「講」を引き継いでいる人たち
によって建てられたというわけです。
また、この道標は以前は「築山」の下に建てられていたそうです。
「停車塲」と彫られていることはこれで納得ですが、なぜ、わざわざここに移設したのか?
という疑問が新たに湧いてきます。

しばらくは平坦な道が続きます。


また護摩木山の石碑が建っています。
「奉獻 成田山永代護摩木山」と刻み、「東京巣鴨町二丁目 保坂徳右衛門長男 保坂
源太郎」と記されています。
碑の裏側の藪がぬかるんでいて、建立年を調べることはできませんでしたが、住所表示
から考えて、それほど古いものではないようです。
保坂家は、巣鴨村で長く名主を勤めた名家で、家長は代々徳右衛門を名乗っています。



護摩木山の碑を過ぎると、やがて国道51号線に出ます。
向かい側に細い道が見えています。
もともと街道はその道に続いていて、国道に分断されたようです。

国道を横切ると、道は緩やかに右にカーブしながら下って行きます。


道の左側には田んぼが広がり、小高い丘の上には農家らしき家が数軒見えています。



小川のほとりに、頭が欠けて、セメントで補修されたお地蔵さまがポツンと立っています。
台座には「三界萬靈」「當村女人講中」と刻まれ、「文政四辛巳年四月」と記されています。
文政四年は西暦1821年ですから、約200年近くもこの道端に立ち続けているのですね。
今回はこののんびりした街道風景で終り、続きは12日にアップする予定てす。


①大崎の馬頭観音 ②伊篠の松並木跡 ③護摩木山の碑と道標 ④護摩木山の碑 ⑤伊篠のお地蔵様