「現在、その道筋は、市川・海神間は国道一四号、船橋市前原・酒々井間は国道二九六号、
酒々井から成田を経て佐倉までは国道五一号の路線にほぼ踏襲され、前原・成田間の旧道
道筋は今も成田街道の通称で呼ばれている。現在では道幅も拡張され、屈曲部が直線化
されて旧街道の面影を留める所はきわめて少ないが、新たにバイパスを通じた部分では
旧道の雰囲気を残している。」 (P14)
(「千葉県歴史の道調査報告書二 成田街道」 1987年 千葉県教育庁)
開発が進み、往時の面影があまり残されていないようですが、“まだ一部には旧道の雰囲気が
残っている”というこの文章に後押しされて、「佐倉街道」から「成田街道」に入る酒々井町から
成田に向かって歩くことにします。

今回の「成田街道を往く」は、この景色から始まります。
京成酒々井駅を出て国道51号線に向かうと、右手に小高い丘が見えます。
遠く筑波山を望むここは、「築山」と呼ばれる酒々井町の名勝です。

国道に出る一つ前の信号を右に曲がるとすぐに「宗吾入口」の信号があります。
右側の階段を登ると、まもなく絶景が開けます。

途中で振り返ると、既になかなかの景色が広がっています。

遠くに見えているのが筑波山です。

筑波山は標高877メートルで、女体山(877m)と男体山(871m)からなり、その美しい
山容は万葉集にも詠まれ、「紫峰(しほう)」とも呼ばれています。
日本百名山の一つで、百名山の中では最も標高の低い山です。


反対側は見渡す限りの田園風景。

昭和3年に建立された「明治天皇御駐蹕記念碑」。
裏面に、ここで明治天皇が四度にわたってお休みになられたことと、ここがかつて中川村
の木内常右衛門邸の築庭であったことが記されています。
「目で見る千葉県の明治時代 千葉県博覧図(上)」(明治27年に制作された銅版画集の
復刻版・1986年)に、「木内常右衛門邸宅の図」が載っていますが、近江八景を模して
造られたと伝えられる大邸宅の庭には、築山があり、灯篭や数々の石柱が立ち、小川が
流れ、背後に印旛沼が広がり、遠く筑波山も見えています。
そして、その絵の中には次のような文章が書き込まれています。
「明治十四年七月一日習志野原演習天覧并成田行幸ノ際及明治十五年五月廿三日
三里塚競馬天覧御幸ノ際往返共天皇陛下行在所」
街道歩きの出発点としてはなかなか良い場所だと思います。

右下にこれから歩く「成田街道」が見えています。

築山を下りて街道を進みます。
「成田街道」は、ほぼ国道51号線に沿うかたちで左右に交差を繰り返しながら進みます。
この「成田街道」は、実は「佐倉街道」が「多古街道」へと続く分岐点から派生する、小さな
街道でしかありませんでした。
成田山新勝寺が有名になり、参詣客が増えるに従って、いつしか「佐倉街道」を含めて
江戸から成田までの道を「成田街道」と呼ぶようになりました。
『船橋市郷土資料館編の「道標」によると、船橋市古和釜の元禄十四年(一七〇一)の
念仏塔や、同市宮本の東光寺境内に保存されている宝永六年(一七〇九)の廻国塔、
それに八千代市大和田の寛延二年(一七四九)の庚申塔には「さくら道」と記されている
が、船橋市前原の安永六年(一七七七)の道標には「なりた道」、同所、明治十一年と
十二年の道標には「成田山道」と刻まれており、次第に成田道の名称が人々の間に浸透
していった様子を窺うことができる。』 (P23)
(「房総の道 成田街道」 昭和62年 山本光正著)
6~700メートルほど進むと、街道は一旦国道51号線と合流します。

ここはやや変則な交差点ですが、写真の手前には2軒のラーメン屋、向かい側には2軒の
ファミリーレストランがあります。
街道はこの交差点へ斜めに入って行く形になります。


街道はほんのちょっと国道を進みます。
前方に「水戸104Km、鹿嶋47Km、成田7Km」の標識が見え、その先の信号を右へ入る
のが街道です。
信号の手前に“「酒々井ちびっこ天国」は左に入る”との案内板が立っています。

国道から再び旧街道に入る景色が目の前に見えていますが、ここでちょっと気にかかる
ことがあります。
私が見た資料では、今来た道が「成田街道」になっていますが、スタートした築山からの
道は旧道らしくない「直線的」であることです。
一旦戻ってそれらしき道が無いか探してみます。

築山から一つ目の信号まで戻り、京成酒々井駅寄りの一つ目の路地に入ってみます。

それらしき景色になってきました。



200メートルほど進むと、丁字路になりますが、その手前に大師堂と、「富士登山参拾二度
大願成就」と刻まれた、明治三十四年(1901)の石碑がありました。
上部には富士山が線描されています。
大師像の隣にある四角柱状の石には、文政十丁亥と文政九丙戌の年号と男女の戒名が
記されています。
文政九年と十年は西暦1826年・27年です。

さらに大師堂の先、丁字路に面して8体のお地蔵様(1体は欠損)の地蔵堂があり、元禄二年
(1689)や明和七年(1770)の年号が読めます。


地蔵堂の向かいある2基の石柱。
左は「二王ミち」と刻まれ、「成田・岩名道蜀山人道標」と呼ばれています。
酒々井町のホームページによれば、江戸後期の国学者、高田与清が文化十四年(1817)
に千葉を旅した時の「相馬日記」に、この石碑のことを「銘は太田南畝、脇に北川眞顔の歌
あり」と記している、とありました。
太田南畝は「蜀山人」と号した狂歌の名人です。
200年以上前の、なかなか貴重なもののようですが、今は風化で読むことはできません。
「二王みち」とは、「岩名の仁王様」として知られる佐倉の玉泉寺毘沙門堂の仁王門への
道を指していると言われているようですが、もともとの場所からここへ移されたようです。
右の石碑には「此方酒々井停車塲道」と刻まれていますので、明治以降のものです。
もう、こちらが旧道の「成田街道」で間違いないようです。

丁字路を右に曲がり、振り返ると、大師堂と地蔵堂の後ろに「火の見櫓」が見えました。
下ばかり見て歩いていたので気が付きませんでした。


さらに200メートルほど進むと、また丁字路が現れます。
ここにも道標が立っています。
正面には「成田 佐原 道 宗吾 安喰 道」とあり、側面にはそれぞれ「酒々井停車場 佐倉
千葉 道」、「酒々井停車場 佐倉 東京 道」とあって、裏面に「上岩橋青年■■」とありました。


これも道標です。
正面に「佐倉 千葉 成田 佐原 道」、側面には「七榮 三里塚 道」と刻まれています。
七栄や三里塚と記された道標は初めて見ました。





小公園があり、そこに「酒々井町立酒々井小学校岩橋分校跡」と刻まれた昭和58年建立の
大きな石碑が建っています。
明治六年(1873)に妙楽寺に仮校舎を建てて開校して以来、昭和54年の閉校まで、106
年間に約1900名の卒業生を送り出したと記されています。

小公園を過ぎると道は右に大きく曲がり、前方に国道がチラリと見えてきます。


国道に出た所の草むらに、傾いて電柱に寄りかかった道標がありました。
風化が進んでいますが、かろうじて「奉納 仁王尊」と読めるような気がします。
寛政二年(1790)のもので、「東 なりた」と刻まれています。
交通量の多い国道の脇で、遮るものも無く風雨にさらされ・・・、このままではやがて文字も
読めなくなって忘れ去られるのでしょう。

国道を渡った先が、前にファミリーレストランのある交差点から見た街道の続きです。



国道を渡って先に進むと、しばらくはいかにも旧道らしい道が続きます。


道端にチラリと倒れた石塔が見えます。
歩いている目線よりやや高い斜面の草むらに隠れていますので、よほど注意して見ないと
見逃してしまいそうです。
「成田山」の文字が大きく彫られ、脇に「酒々井■三拾町」とあります。
酒々井宿から三拾町ではちょっと長すぎますし、成田山へ三拾町では短すぎます。
成田街道の道標であることは間違いないのですが・・・。


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やがて道は大きく左へカーブして長い登り坂となります。
この辺りは木々に囲まれて薄暗く、人家もまばらで、廃屋もいくつか見られます。
ゴールの成田山はまだまだ先ですが、ここから先は次回にしましょう。
(9日に更新の予定です。)


①築山 ②大師堂・道蜀山人道標 ③酒々井停車場道標 ④七栄・三里塚道標 ⑤岩橋小学校跡
⑥倒れた道標 ⑦上岩橋道標