

村田の細い山道を登ると、二本の石柱が目に入ります。
「耕田寺」の門柱で、大正八年(1919)建立です。


山道からお寺への道の片側は崖になっていて、地層がむき出しになっています。



石段の脇に湧水があるようで、コンクリートで囲われた小さな池があり、中に数匹の金魚
が泳いでいました。

石段は急勾配で、上の様子は見えません。

石段を登り切ると正面に集会所のような建物が見えます。
周りには建物がありませんから、どうやらこれが「耕田寺」の本堂のようです。
ごく最近建てられたもののようで、寺額は架かっていません。
境内も整地されたばかりのようで、立木も無く殺風景な感じです。
この「耕田寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「若宮山」。
佐原の「大龍寺」の末寺で、ご本尊は「十一面観音菩薩」です。
史料にはそれぞれ下記のように記されています。
「臨済宗妙心寺派。村田村字寺下に所在。山号は若宮山(「郡誌」)で、若宮八幡の
別当寺であることからの名称。本尊は観世音(「県寺明細」)。長泉寺と同じく大龍寺
の末寺。」 (「大栄町史通史編中巻」P559)
「若宮山耕田寺 大須賀村大字寺下に在り域内二百五十坪臨済宗にし觀音を本尊とす
開創詳らかならず寺傳に曰く本寺には弘安年中北條時宗國難を全國の神社に祈願し
討平の後ち香取神宮に収めし時の十一面觀世音菩薩を安置せしものなりと」
(「香取郡誌」大正十年 P431 アンダーライン部分は脱字?)
村田村は明治二十二年(1889)の町村制施行に伴い、大須賀村になっています。
臨済宗は建仁寺派・東福寺派・建長寺派を始め十数派に分かれていますが、妙心寺派
は3500寺近くを有する最大の派で、成田市内の5つの臨済宗寺院は全て妙心寺派に
属しています。
「耕田寺」の本寺である「大龍寺」は、佐原にある大同年間(806~810)に創建された
1200年以上の歴史を有する古刹です。
寺伝の通りだとすると、ご本尊の「十一面観世音菩薩」が香取神宮から移されて安置され
たのが弘安年間(1278~1287)であることから、この「耕田寺」の創建は730年以上も
前ということになります。

補修された手水盤には、■■四十二年一月と記されています。
風化の状態から明治四十二年(1909)に寄進されたものと思われます。


本堂の右手に建つ宝塔には、「天明三癸卯八月」と記されています。
天明三年は西暦1783年で、この年は浅間山の大噴火によって天明の大飢饉がさらに
深刻化した年です。
正面には「㳒界萬靈」と刻まれ、裏面に「奉讀誦大乘妙典千部」「権大僧都法印觀海」と
刻んでいます。
宝塔の隣に立つ説明柱には、ご本尊について下記のように書かれています。
「成田市指定有形文化財 銅造十一面観世音菩薩坐像 鎌倉時代
佐原市観福寺所蔵の重要文化財である銅造十一面観世音菩薩座像と同じものと思わ
ています。もとは、香取神宮本地仏であったと伝えられていますが、この作風からみて
地方では僅少の金銅仏で貴重なものであります。」
「成田の地名と歴史」には、この「銅造十一面観世音菩薩座像」について次のように
詳述しています。
「村田の耕田寺の本尊で、像高21.9cmを計る銅像である。髻頂に仏面、髻中に
頭上面十面をあらわし、正面には化仏を配する。頭部・体部・脚部を一鋳し、両腕
は別鋳して、肩でアリ枘挿しする。鍍金の痕跡が認められる。背面は平らにし、上下
2か所に接合用の枘(小孔を持つ)を鋳出しているので、もとは懸仏であったものと
考えられる。本像はよく引き締まった丸顔に明るく生気ある表情を見せ、胸、腹など
の肉付けにも生彩がある。これらの作風から、本像は鎌倉時代も13世紀後半ごろ
の作とみられる。」 (P256)



失礼して、ガラス越しに内部の写真を撮らせていただきました。
ご本尊の「十一面観世音菩薩坐像」の写真が飾られ、「観世音」の掲額も見えます。
色鮮やかな厨子の中にご本尊が安置されているのでしょうか。

本堂の軒下に小さな鐘が吊るされています。
宝暦十年(1760)と記されていますが、気になる文字を見つけました。
「下總國香取郡村田村若宮山光傳禪寺小鐘銘」 とありました。
「耕田寺」ではなく、「光傳寺」となっています。
これについては、「大栄町史 通史編中巻」に次のような記述がありました。
『「禅宗済家妙心寺派下寺院帳」や、天明四年の内寄水帳では「光伝寺」とある。』
(P559)
以前は「光傳寺」であったものが、何らかの理由で「耕田寺」に変わった訳です。
意味のある改称であったはずですが、史料は見つかっていません。

ポツンと立つ灯篭は昭和58年に奉納されました。

「奉讀普門品壱萬巻供羪塔」。
大正十参年(1924)と記されています。

この板碑には梵字の下に「平」という文字が刻んであります。

この小さな石仏は摩耗が激しく、はっきりとは分かりませんが、立膝をした如意輪観音の
ようにも見え、赤子を抱いているようにも見えるので慈母観音かも・・・。
ずんぐりした、見慣れないスタイルの石仏です。
「明治四十三年女人中」と記されています。

多分「地蔵菩薩」だと思いますが、苔がたくさん付いていて、よく分かりません。

境内横の山腹に墓地が見えます。

道が消えて雑草が生い茂る中を、何とか墓地まで登ると、石仏と祠が並んでいます。

「奉建立子安観世音」と刻まれたこの子安観音像には、「寛政十■午十一月吉日」と
記されています。
寛政十年代で干支に午があるのは十年だけですから、この子安観音像は寛政十年
(1798)のものです。
とても優しいお顔をしておられます。

「子安観音」の隣は元禄二年(1689)と元禄十三年(1700)年と記された二つの戒名
が刻まれています。
真ん中の石仏は享保四年(1719)のものです。


右端にある祠は珍しいものです。
正面には、「待拾九夜同志満願■女二十七人施主」と刻まれています。
この文字からは「月待塔」ということになりますが、側面と裏面にそれぞれ二体ずつの
地蔵像が彫られています。
月待塔に六地蔵の組み合わせは初めて見ました。


元禄、享保、延享、宝暦、寛政、文化、天保等の年号が見えます。

突き当たりにも数基の板碑が・・・。
その形状から、下総型板碑と武蔵型板碑が混在しているようです。



さらに上の山腹には歴代住職のものと思われる卵塔が並んでいます。
板碑も2基ありました。

卵塔の並ぶ墓地から見下ろす村田の景色。
右下に見えている屋根は「耕田寺」の本堂です。

墓地の一角に「青面金剛王」と刻まれた庚申塔がありました。
寛政十■とだけ読めました。
「寛政」は十三年までで、たまたま十二年(1800)が「庚申」にあたります。
寛政十二年に建立されたと考えても良いのではないでしょうか。

庚申塔の隣の「月待塔」。
「奉造立十九夜月天子」と刻まれています。
月天子はインドの月の神で、仏教では勢至菩薩の化身とされています。
明和九年(1772)の建立です。
この年は江戸三大火の一つ、「目黒行人坂の大火」があった年で、この他にも度々災害
が起こったので、人々は“迷惑年=明和九年”などと言い合ったそうです。

「奉造立十三夜」、「天明七丁未十一月吉日」と記された「月待塔」。
天明七年は西暦1787年になります。
宝冠をかぶり、右手に剣、左手に宝珠を持つ、「虚空蔵菩薩」が刻まれていますが、
これは十三夜講が「虚空蔵菩薩」を信仰対象としているからです。


小さなバッタがいました。
夏も終わり、動きも鈍ってきたのでしょうか、カメラを近付けてもジッとしています。


本堂を建て直し、境内を整地して間もないからでしょうが、何となく物足りない風景です。
でも、ここは(寺伝によれば)730年以上の歴史ある「耕田寺」なのです。
再び木々が茂り、鳥や虫が集い、長い歴史を浸み込ませた石仏や板碑が似合う境内が、
五十年、百年先のいつの日か、戻ると信じたいと思います。
そして、その蘇った境内を決して見ることのない私は、と言えば、“光を伝える”寺(光伝寺)
が、如何なる理由から“田を耕す”寺(耕田寺)となったのかを教えてくれる史料が、いつか
眼前に現れることを信じています。

※ 「若宮山耕田寺」 成田市村田333