
「高徳寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「池谷山(ちさくさん)」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

堀籠の山道を登ると、ポツンとお堂が建っています。


左右には一体ずつ石仏が置かれ、お堂の中には紐で結ばれた細長い厨子が。

左側の石仏は頭や印を組む手が欠けていて、何の仏様か分かりません。(頭はセメントで
一応着け直されています。)
年代も分かりませんが、立膝の見慣れないポーズをとっています。
「興福寺」の国宝の中にある法相六祖の「伝・行賀像」や「伝・神叡像」がこれに似たような
ポーズですが、石仏としては見たことがありません。

右側の石仏は「釈迦如来」とも見えますが、親指と人差し指で輪を作り、右手を上に、
左手を下に置く「上品下生印」を組んでいるので、「阿弥陀如来」です。
天明二年(1782)と記されていますが、この年は近世における最大の飢饉と言われる
「天明の大飢饉」(天明二~八)が始まった年です。
お堂の先に左に下る急坂があり、お寺の本堂がチラリと見えています。
下り口に消えかかった文字で高徳寺と書かれた掲示板(?)がありました。



「高徳寺」については、「千葉縣香取郡誌」の寺院の項に“その他の寺院”としてだだ一行、
「大栄堀籠 宗派・曹洞宗 本尊・阿彌陀如来」とのみ記されているだけですが、実はその
前身の「興徳院」から数えると700年近い歴史を秘めた古刹なのです。
「この地には、鎌倉時代から室町時代にかけて、成田市吉岡に所在する大慈恩寺の
末寺で、真言律宗の興徳寺があったとされています。しかし、いつの時期に興徳寺から
高徳寺となり、曹洞宗に転じたかは不明です。」
(「成田市の文化財 第42集 P28)
「曹洞宗。堀籠村字池ノ谷に所在。山号は池谷(ちさく)山。本尊は阿弥陀如来。伊能村
宝応寺の末寺。禅宗でも他宗と同様龍門寺ー長国寺ー宝応寺ー高徳寺という多層の
上下関係が成立していた訳である。高徳寺の地には鎌倉時代末期から室町時代前期
にかけて、大慈恩寺末で真言律宗の「興徳院」があった。」
「興徳院から高徳寺となり、曹洞宗に転じた年月については現時点では未詳である。」
(大栄町史 通史編中巻 P560)
現在の「高徳寺」は曹洞宗で「宝応寺」の末寺ですが、その昔は真言律宗で「大智恩寺」
の末寺の「興徳院」であったようです。
この「興徳院」については、「成田の地名と歴史」に次のように書かれています。
「堀籠字池ノ谷にあった律宗寺院で、大慈恩寺の末寺であった。現在同地にある曹洞宗の
池谷山高徳寺の前身。国分氏の祖胤通の子である村田宥通は、大戸庄村田郷を名字の
地としたが、その子孫に当たる胤朝・胤頼らは1325(正中2)年、当寺の本寺を大慈恩寺と
定め、村田郷堀籠村の内で寺領を寄進し、寺領における公事(税)免除の特権を与えた。」
「1336(建武3)年には国分朝胤が、堀籠村の内の寺領を、大慈恩寺の末寺であることを
条件に安堵している。1363(貞治2)年には、国分一族の胤村・貞義も堀籠村の内で寺領
を寄進している。国分氏の一族は、大慈恩寺の末寺である当寺を外護することを通じて
律宗を信仰していたのである。」 (P256)


境内の左手奥に建つ「慈母地蔵尊」。
右手に錫杖を持ち、左手に子供を抱え、足許にも袈裟にすがる子供が刻まれています。
親に孝行の徳を積む間もなく幼くして世を去った子供は、賽の河原で鬼にいじめられながら
石塔婆作りを続けさせられるとされていますが、地蔵菩薩は賽の河原を訪れては子供達を
守りながら、仏法やお経を聞かせることで徳を与え、成仏への道を開いてあげると言い伝え
られています。
この像は、その地蔵菩薩の姿を現しています。


「慈母地蔵尊」の後方の山腹には、小さな墓地があります。


慶安、元禄、宝永、享保、元文、延享、宝暦、明和などの年号が読め、300年以上前の
古い墓石も多く並んでいます。



本堂の鬼瓦には、千葉氏の流れを組む国分氏の家紋である「九曜紋」が光っています。


「慈母地蔵尊」の奥に建っている「一石一字塔」。
「奉書寫大乘妙典一石一字」と「讀誦千手陀羅尼百万遍」と記されています。
明和二年(1765)の紀年銘があります。
「大乗妙典」とは、人々を悟りの世界に導いてくれる経典のことで、法華経(妙法蓮華経)
のことです。
「千手陀羅尼(せんじゅだらに)」は、千手経のことで、千手観音の功徳を説いたお経です。
「一石一字塔」は経文の文字を一文字ずつ石に書いて埋めたもので、土屋の「薬王寺」や
東和泉の「城固寺」にもありました。



本堂の裏にある墓地は、山腹の墓地より新しい墓石が多いようです。
周りの竹やぶの中で、曼珠沙華が深紅の花を咲かせています。


本堂の新築記念碑には、空港関連事業や東関東自動車道の大栄インターのために、寺山
の大部分が買収の対象となってしまった経緯と、この本堂が平成15年11月に落成したこと
等が記されています。


境内の脇からもう一つの坂が下っています。
どうやらこちらが正門だったようです。
門柱は大正四年(1915)に建立されました。


門柱の陰に「不許葷酒入山門」と刻まれた「結界石」が立っています。
“酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は修業の妨げとなるので、入山すること
を許さない”という、曹洞宗のお寺の入口には必ずと言って良いくらい立っているものです。





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南天の葉に小さなアマガエルがいました。(あわてて撮ったのでピンボケです)


「成田市の文化財第42集」や「大栄町史」では、「高徳寺」がいつ「興徳院」から改宗し、
改称したのかは不明としていましたが、「成田の地名と歴史」中の「興徳院」の項に、
「近世に入ると伊能の宝応寺七世の懃南嶺慇(1661没)が曹洞宗に改宗して宝応寺の
末寺として高徳寺と改め、当寺に隠居した。」 (P256)
と改宗・改称について書かれていました。
宝応寺七世の懃南嶺慇が1661年(万治四年)に没したとすれば、改宗・改称の時期は、
明暦年間または万治年間と考えて良いと思われます。
堀籠の「高徳寺」は、正中二年(1325)に真言律宗の「興徳院」として開かれ、明暦・
万治年間に曹洞宗に改宗して、寺名も「高徳寺」と改めたということで、「興徳院」から
数えて690年、「高徳寺」となってからも約350年の歴史を持つ古刹です。


※ 「池谷山高徳寺」 成田市堀籠614