
「琴平神社」のご祭神は「金山彦命(カナヤマヒコノミコト)」。
200年以上前に四国の琴平宮から分祀されました。
「金山彦命」はその名の通り「金山」(かなやま=鉱山)を司る神で、金属に関わる技工を
守護する神とされています。
「成田市史 中世・近世編」中の「成田市域の主な神社」表と解説にはこの神社についての
記述が見当たりません。
「成田市史近代編史料集一」中の「公津村誌」にも記述は無く、「千葉縣印旛郡誌」に公津村
の“その他の神社”として一行名前があるのみです。

石段を数段上って鳥居をくぐります。
昭和53年に建立された石造りの立派な明神鳥居です。



小柄な狛犬は愛嬌のある表情です。
平成10年に設置されました。


手水舎と手水鉢は昭和61年に地元企業から寄進されました。


「千葉県神社名鑑」には、次のように記載されています。
「琴平神社 本殿・銅板葺一坪、幣殿・銅板葺八幡造一.五坪、拝殿・同六坪、社務所瓦葺
木造三二坪、神輿山庫・瓦葺木造七.五坪 境内坪数五〇八.六坪 氏子二〇〇戸」
大正二年(1913)編さんの「千葉縣印旛郡誌」に一行だけあった「琴平神社」の項では、氏子
は十八戸とありましたが、昭和62年編さんの「千葉県神社名鑑」ではそれが200戸となり、
後述の「社殿建設記念碑」(昭和53年)では氏子は500戸を超えると書かれています。
宅地化が進んだ現在では、さらに氏子の数は増えているはずです。


八幡造りの拝殿はバランス良く、その大きさ以上の重みが感じられます。



銅板葺き、神明造りの本殿は、幣殿で拝殿とつながっています。
鰹木は3本、千木は垂直切りでご祭神が男神であることを示しています。


「天満宮」(上)と「子安神社」(下)。

「子安神社再建碑」。
大正十二年(1923)に建てられましたが、現在の「子安神社」は昭和53年に再建されました。

「再建碑」の隣にある手水鉢は大正八年(1919)のものです。

境内左手に並ぶ「子安神社」と再建碑と手水鉢。
左端は納札所。


赤い木柵で囲まれた一角があります。
説明板がありませんが、何か神聖な場所のようで、中には数個の石が積まれています。
香取神宮の「要石」を思い出しました。



境内の右手には公民館と社務所があります。

昭和53年建立の「社殿建設記念碑」。
碑文には、
「当琴平神社は今を去る二百余年前 旧飯田新田の鎮守神として四国琴平宮より ご祭神
金山彦命を分祀し古くより家内安全 五穀豊穣 進学 就職 縁結びの守護神として各方面
に御神徳を顕現せられ 氏子崇敬者の信仰尊敬極めて篤く今日に及んだ 創祀当時の氏子
は十八戸なるも現在区内五百数十戸に激増し社殿の狭隘甚だしく夙にその改築と諸施設の
整備が望まれていた 今日成田ニュータウンへの幹線道路の建設に伴い境内地一、〇一八
平方米の譲渡を機に建設委員会を組織して 神社役員 地権者相計り社殿を始め天満宮
子安神社 社務所 鳥居 参道及び本記念碑の建設を議決 昭和五十三年一月着工し仝年
十月完成した・・・」とあります。
各地の「琴平神社」はそのほとんどがご祭神を「大物主神」としていますが、この神社のよう
に「金山彦命」をご祭神としている所もあるようです(和歌山・紀美野町、山形・南陽市等)。
明治政府による「神仏分離令」によって象頭山松尾寺が廃寺となり、神仏習合の神であった
金毘羅権現は金刀比羅宮となりました。
金毘羅権現時代のご祭神は不詳とされていますが、「大物主神」とも、「素戔嗚尊」とも、また
「金山彦命」とも言われていましたので、ここ飯田新田の「琴平神社」のご祭神が「金山彦命」
となったのでしょう。

昭和59年に建立された「夏祭復活記念之碑」。
夏祭りが昭和36年を最後に行われなくなっていましたが、周辺の人口増加もあって復活
の機運が高まり、昭和58年に神輿を新調して再び夏祭りが行われるようになった経緯が
書かれています。

通りを挟んだ向かいは「成田赤十字病院」です。

「山車蔵」は通りに面して建てられています。
隣は消防団の第2分団第8部の詰所です。

神社の裏手にあるスーパー銭湯「華の湯」。



よく整備された「琴平神社」は人口が増加する市街地の中にあって、過疎化や神社離れの
風潮に晒されている多くの神社に比して、とても恵まれた環境にあります(いや、恵まれた
環境を神様が与えて下さっていると言うべきでしょうか)。
この神社の夏祭りの復活のように、神社やお寺が、地域の精神文化の中心に戻れる日が
来てほしいものです。

※ 「琴平神社」 成田市飯田町89
ありがとうございます。来年は是非おじゃまします!