四か町とは、仲町、田町、上町、そして本町を指します。
(仲町、田町、上町の記事は、巻末にリンクがあります。)

ここが本町の北端。
手前の黒い建物は酒屋の「なべだな(鍋屋源五右衛門)」、その後ろは「鍋店ビル」です。
鍋店ビルのすぐ後ろは、同じ「成田山門前四か町」の田町になります。


成田山総門に向かって右側の境内の外れから、参道に面した一角は「本町」になります。
総門側の、普段は閉まっている小さな売店から、右端の「なべだな(酒屋)」まで、数軒の
店が並んでいます。
「なべだな」の先は田町方向への道を挟んで田町の弘恵会駐車場です。

総門向かいの「若松本店」は「本町」ですが、隣の「信徒会館」は「成田」です。
「信徒会館」だけが「成田」で、その隣の「佐野屋」からは「本町」になります。
入り組んだ境界線ですが、もともとは「若松本店」から「いなりや」までの並びが本町だった
のが、後述する「日赤病院」(前・蓬莱閣ホテル)を成田山信徒会館とした時点で、この場所
だけを「成田」に移したのではないでしょうか。






「東町」との境の「いなりや」の脇に小さなお堂があります。
「正一位胡桃下稲荷大明神」の幟が数本立っています。
詳細は不明ですが、幟の中に「笠間稲荷大明神」と記したものが一本ありましたので、
茨城の「笠間稲荷」から分祀したものと考えられます。
「笠間稲荷」は別名「胡桃下稲荷」とも言われています。


参道から京成成田駅方面にに抜ける、通称「電車道」です。
この辺りが宗吾参道から成田駅を通って成田山まで走っていた「成宗電車」の終点で、
昭和19年に廃止されるまで「山門前駅」があった所です。
そのためでしょうか、この一角だけは道幅がとても広くなっています。
私の記憶では、30年ほど前までこの場所には大きな鉄傘が架かっていて、商店の店先
は昼間でも薄暗かったものです。
あれは駅の名残りだったのでしょうか。
「成宗電車」は、明治四十三年(1910)12月に門前~成田間が開通しましたが、宗吾~
成田間のように、すんなり実現したわけではありません。
門前への乗り入れには当時150台近くあった人力車の車夫や参拝客に素通りされる
不安を持つ上町や花崎町の商店主らが猛反対し、乗り入れ推進派の本町・田町との間で
町を二分する大騒動となりました。
滑車が回転して架線に接する集電装置(トロリーボール)で走る、定員40人の車両で、
巾約2.3メートル、長さ約8メートル、重量は約6.4トンでした。
(「成宗電車」についてはいずれじっくり取材して書くつもりです。)
電車道を京成成田駅方面にちょっと進んで左に折れると、町役場や郵便局、警察、裁判所
などがあった、かつての官庁街の一帯に出ます。
今は全てが移転して何も残っていません。

この辺りが官庁街だった(?)


明治三十二年(1899)に本町字谷津に新たに役場が建設されました。
木造二階建ての新役場の建設費は当時のお金で1785円かかりました。
「仝丗二年町村制施行につき成田町役塲と改稱九月十日成田町字谷津五百九十八番地
の二に新築移轉す即今の建物之にして敷地二畝十八歩建物は瓦葺木造二階建一棟建坪
四十七坪七勺三才あり」 (「千葉縣印旛郡誌」中の「成田町誌」)
(合は坪の10分の1、勺は合の10分の1、才は勺の10分の1)
町役場の周辺には、郵便局や警察の成田分署、佐倉裁判所の出張所などが集まって、
活気ある官庁街を形成して行きます。
この役場は昭和9年に建て直されました。
一階には事務室・町長室・助役室・応接室・食堂・印刷室などがあり、二階には会議室・議員
控室などがあるモダンな建物で、昭和29年に成田市が誕生後も、増改築を繰り返しながら
現在の市庁舎が建てられる昭和33年まで使われていました。

ここが現在の本町598番地。
番地が変更されていなければ、役場があった場所はここになります。
いまは跡形もありませんが、道端に鳥居が立っています。

細い路地の先に石段が見えます。

80段余りの九十九折りの石段を登ると、鞘堂に護られたお堂がありました。
このお堂の名前は地図にも史料にも出ていません。


お堂の前には「永代常燈明」を刻まれた小さな石塔と手水鉢があります。
石塔は一部が欠けていますが、「品■ 講中」と記され、側面には寛政十一年(1799)と
読める紀年銘があります。
手水鉢はお椀のような形の変わったものですが、年代は分かりません。


ここからは、門前地区の本町と成田山の伽藍が見えます。
鳥居のあった場所から石段の下までは「本町」ですが、このお堂は、上町が本町と東町
の間に突き出した場所にあります。


「電車道」の一本裏の道は静かな住宅街です。

登り坂の途中に大師堂と地蔵堂がありました。

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大師堂の中には小さな大師像が見えます。
地蔵堂には3体のお地蔵さまが立ち、中央の大きなお地蔵さまの台座には「三界万霊」
と刻まれています。
右端のお地蔵様は痛ましいお姿です。
それでも何とか修復が試みられて、あちらこちらにセメントの痕がありますが、首は無く
なっていて、頭の形をしたセメントの玉が載っています。

道端の地蔵堂は、何か懐かしい風景です。


登り坂の上は突き当たりになっていて、左側は「成田幼稚園」、右に行けば「上町」です。
チラリと「電車道」のトンネルが見えています。

トンネルの上から成田山方面を見ています。
画面右側が「本町」、左側は「上町」です。

「電車道」に下りてきました。
先ほど上から見下ろした「成宗電車」の名残りのトンネルが見えます。


電車のホームにある駅名板のようなものが、石垣に取り付けられています。
昔のものではなさそうですし、バス停でもなさそうです。
書かれている地名は、昔の小字(こあざ)で、「谷津」はこの一帯の小字、「小井戸」は
石段を上った先の小字で、古地図には、この辺りに「神明ミタラシ小井戸」があり、坂の
上には「神明社」が書き込まれています。

「電車道」を成田山に向かって戻ってきました。
「信徒会館」の裏側に左に入る細い石段が見えます。
「神明山」に登る道です。

石段は途中で二又に分かれ、真っ直ぐ登ると、昔の一時期に新勝寺があった「神明山」
に向かい、左に折れると「上町」の住宅街、そして表参道へと続いています。
分かれ道に祠が3基立っています。
手前の屋根の下の祠は、補修が加えられていて一見新しく見えますが、明和八年辛卯
(1771)と記され、露天の右側の祠には天保五年(1834)と記されています。



振り返ると先ほど登った向いの山の神社や道路の鳥居が見えています。
神明山については、以前書いた「お不動様の旅(4)」の項でふれています。
「神明山」から「現本堂」まで~お不動様の旅(4) ☜ ここをクリック

さて、最後にもう一度信徒会館に戻って、以前ここに建っていた「蓬莱閣ホテル」について
書いてみます。(写真は下記の成田市立図書館のホームページ中にありますので、リンク
を貼っておきます。)
「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 成田」(昭和55年 大野政治・小倉博 編)には、
「蓬莱閣ホテル」について次のように書かれています。
「大正一五年三月、門前の旅館海老屋・小川屋・阿波屋(もと鍵屋)を合して、株式会社
蓬莱閣ホテルが完成した。大小三十数室を備え、千人風呂・家族風呂・婦人専用風呂
の設備のほか、舞台付きの大広間などがある近代的なホテルであった。また階下には
大食堂をつくり、宿泊客だけでなく一般の参詣客にも利用させた。昭和四年の宿泊料金
は三円から七円で、他の旅館よりは高い。」 (P22)
京成電車が成田まで開通することになり、東京方面からの急増する参詣客が宿泊する
ことを予想して、このホテルは構想され建設されましたが、皮肉なことに電車の開通は
日帰りの参詣を可能にしたため、ホテル経営は思惑外れとなってしまいました。
「明治初年の成田村旅館業の状況は、52軒の旅籠屋が存在し、宿泊人数は半年間で
14万2,131人にのぼり、1日平均785人の客がいたことが示されている。」
(「成田の歴史アルバム」 昭和63年 市長公室広報広聴課 編 P48)
鉄道も無かったころの宿泊客がこれほどいたとすれば、明治30年に成田鉄道が開通して
以降も、宿泊客は飛躍的に増加していたはずで、そこに京成電車も・・・となれば、海老屋
や小川屋、阿波屋が近代的なホテル建設を急いだのは当然だったのかも知れません。
戦後は日本赤十字社の病院となり、さらに成田山信徒会館となっていましたが、それも
平成16年に解体され、現在の景色となっています。
成田市立図書館 「蓬莱閣ホテルと石川家(海老屋)」 ☜ ここをクリック
「千葉県博覧図」には、明治時代の「旅舎 海老屋石川甚兵衛」と「旅舎 小川屋小野寺
久太郎」の様子が描かれています。
「海老屋」は木造二階建てで「海老屋甚兵衛」と書かれた大看板が正面に掲げられ、二階
には道路に向かって突き出したベランダのようなものが見えます。
奥には廊下でつながった数棟の離れが並んでいて、正面の店先には人力車が並び、車夫
が客待ちをしています。
「小川屋」は木造三階建てで、二階・三階には「海老屋」と同じベランダのようなものがあり、
裏側の同じ三階建ての建て物との間には風呂場があるようで、大きな煙突が見えます。
一階の正面は大きく開かれて、奥には番頭らしき人物が座っています。
いずれも堂々たる旅館で、(結果論ですが)ホテルへの転身はちょっともったいなかった気
がしてしまいます。

「成田名所圖會」(昭和48年 中路定俊著)に掲載されている「成田山全圖」には、現在の
本町あたりも書きこまれていて、成田山の前を神明山の山裾を縫うように権現山に至る道
が見えます。
また、「元往来」と書かれた道は今の信徒会館の辺りを通り、現在「電車道」と言われている
通りに合流しています。
合流点の辺りは大きな「用水」があり、元往来から成田山に向かって右側(現在の電車道
との間)には、「大日寺」というお寺があったようです。
昔から成田山の門前に拓けた「本町」界隈は、時代の移り変わりとともに大きく変貌して
きましたが、市外からの参詣客が表参道を歩く一方、勝手知ったる成田市民にとっては、
混雑の少ない「本町」を通る「電車道」が、生活道路としての重要な役割を果たしています。

台の坂の成田山門前町~仲之町 ☜ ここをクリック
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上町~門前四ヶ町の一つは参道と路地の町 ☜ ここをクリック
本町598番地の階段の上にあるお堂は愛宕様と云われており各町内にある道祖神の一つの様です。
コメントをありがとうございます。
愛宕様と呼ばれているのですね。 史料からの知識だけでは分からないことが多く、
地元の方から貴重な情報をいただいて、謎が解けたり、腑に落ちたりすることが
度々あります。 私は脚が悪いだけでなく、難聴のため、お寺のご住職や地元の方
に気軽に声をかけることができません。 これからもお気づきのことがございましたら、
コメントをいただけると幸いです。