
「普門寺」は真言宗豊山派のお寺です。
「 寺 貮ヶ所
真言宗 東勝寺 村中字堀尻
同 普門寺 村中字堂谷ツ 」
明治七年(1874)に作成された「下総國印旛郡下方村一村限調帳」(成田市史近代編
史料集一に収録)には、村内のお寺についての記述はこの二行しかありません。

寺への小道は田んぼの畦道のようです。
路肩に小さなお地蔵様。
年代は分かりません。

真っ直ぐに伸びた石段の先に、朱色の屋根の本堂が見えています。

手水盤には良く読めませんが宝暦十■■未年と記されています。
宝暦年間の二桁の年で干支の後ろが未の年は宝暦十三年(1763)になります。



寺額は色褪せて読みにくい状態ですが、「鷺田山」と読めるような気がします。
このお寺に関する資料はほとんど見つかりません。
「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院表」にも、「東勝寺(宗吾霊堂)」の末寺
であることの他は、山号、創建年代、開山、本尊のいずれも空欄になっています。
わずかに、所有する土地に関して
「屋敷五畝一八歩・中田一反三畝八歩・下田七反三畝三歩」 (P787)
との記述があるだけです。
真言豊山派のホームページで検索しても名前が出てきません。
同じ真言宗豊山派で、「普門寺」の寺号を持つお寺をネットで調べると、近県では埼玉県の
八潮市にある「普門寺」(本尊・不動明王)や、茨城県つくば市の「普門寺」(本尊・阿弥陀如来)
の他、いくつかのお寺が見つかりましたが、成田市の「普門寺」はヒットしません。
このお寺の「普門」という名前は、「普門品(ふもんぼん)=観音経」に因んでいると思われます
ので、宗派に関係なく「普門寺」という寺名のお寺のご本尊は観音菩薩が多いようです。
やっと見つけたのが、大正二年(1913)年の「千葉縣印旛郡誌」にある以下の文章です。
「下方村字冲畑にあり眞言宗にして東勝寺末なり十一面勸世音を本尊とする由緒不詳堂宇
間口三間奥行三間境内百七十三坪官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒二十九人
を有し管轄廰まで六里二十町なり寺院明細帳」
これによりご本尊は「十一面観音」であることが分かりました。



境内左手のお堂には祠と如意輪観音が祀られています。
向かって右の如意輪観音はコケに覆われて表情も良く分かりません。
左の祠には嘉永七年(1854)と記されています。
嘉永七年は「日米和親条約」が締結された年です。
前年にはペリーの黒船が浦賀沖に来航し、当年5月には京都の大火で御所が全焼し、7月
には伊賀上野大地震、12月には東海大地震・南海大地震。豊予海峡大地震が立て続けに
発生するなど、世の中が騒然としていた頃です。

「普門品千部供養塔」。
台座の文字が「享保」と読めるような気がしますが・・・。




本堂の脇に並ぶ古い墓石群は草に覆われています。
約20基の墓石には、元禄、享保、延享、宝暦などの年号が見えます。



本堂にはまだ「賀正」と書かれたポスターが貼られたままです。
普段は訪れる人も無いのか、さほど広くない境内ですが、何かがらんとした雰囲気です。


境内右手にある大師堂。
大師像には「南無大師遍照金剛」と書かれた襷が掛けられています。
右手にあるお堂と同様に、堂内にはたくさんの人形が奉納されていますが、これにはなにか
謂れがあるのでしょうか。



裏にはたくさんの墓石が並んでいます。
その多くにお地蔵さまや如来像が彫られていて、延宝、元禄、正徳、享保、宝暦などの
年号を読むことができます。



石段の下から見上げる「普門寺」は、いかにもお寺らしい風情です。
鮮やかな朱色の屋根が、木々の間から見え隠れしています。
創立の年代は不詳ですが、境内にある年代の判読できる墓石で一番古い延宝年間
(1673~81)にはこのお寺はあったと考えて良いと思います。
少なくとも350年程度の歴史はあるということになりますね。


※ 「普門寺」 成田市下方1043