
「勧行院」は天台宗のお寺で、山号は「天王山」。
天文年間に祐海により創建されました。
栄町の龍角寺の末寺でした。

坂田ヶ池公園の駐車場脇の急坂を登った先に「勧行院」はあります。

境内の真ん中に建つこの宝塔には宝暦七年(1757)と読める文字があります。

境内は閑散とした雰囲気です。
写真で見るよりずっと荒れた感じのお寺で、これは本堂ではなく、使われなくなった集会所
といった感じです。
建物の中も荒れています。


「勧行院は本尊が「薬師如来」で山号を天王山と号する。天文年間(一五三二~一五五五)
祐海によって創建されたが、当時は草庵程度のもので、宝暦五年(一七五五)覚栄のときに
六間・五間の本堂ができた。」 (「成田市史 中世近世編 P784)
今はすっかり寂れていますが、480年近い歴史あるお寺です。
このお堂は比較的新しいもののようです。
大きさも上記の「成田市史」にある本堂より小さいので、本堂が何らかの理由で消失した後、
ここにご本尊の「薬師如来像」を納めた「薬師堂」だと推測しました。
なお、成田市の指定文化財のリストには、このお寺の懸仏が載っています。
これもこのお堂の中に収められているのでしょうか。

なぜか境内に一つだけある墓石。
明治11年と記されています。


大師堂の中に風化でお顔が平面的になった大師像が座っています。
背後の壁だけ新しく合板で補修されています。

大師堂の裏、境内の外れに小さな祠が二つ。
実は、この場所には昨年8月に訪れていますが、ここが「勧行院」だとは気付きませんでした。
近くにある「円光寺」を訪ねる途中で道を間違えてしまい、この場所に出てしまったのです。
↓ その時の記事です。 (平成26年8月24日)
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ここだと思って登った坂の上にはポツンとお堂が建っていました。
「天王山」と掲額があるだけで、何の手掛かりもありません。

境内に一つだけ建っている宝塔には宝暦七年(1757年)と刻まれています。


細い山道の反対側に小さな墓地がありました。
墓石を見ると、寛文二年(1662年)、貞享四年(1687年)、正徳三年(1713年)、
明和六年(1769年)等の文字が読めました。
荒れ果てていますが、さぞかし歴史のある場所なのでしょう。
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前回私が訪ねて以来、誰かがここに来たことはあったのでしょうか?
目に入る景色は何一つ変わっていないような気がします。

この先は人が通ることは無いようです。
枯葉が積もり、歩くと靴が沈みます。
道の反対側に小さな墓地が点在しています。

墓地は5~6メートル置きに3ヶ所に分かれています(もともとはつながっていたものが竹やぶ
に浸食されて離れてしまったのかもしれません)。
一番奥の墓地には5基の墓石が並んでいます。
手前の墓石には、宝暦十一年(1761)、宝暦十三年(1763)、明和六年(1769)、安永四年
(1775)に亡くなった方の戒名が並んで刻まれています。

隣の2体のお地蔵さまは、頭が欠けています。
「歸空」と刻まれている左のお地蔵様は元文三年(1738)のものです。
右のお地蔵さまは元文五年(1740)のもので、こちらは頭を付け直されています。




真ん中の墓地の奥には寛政十二年(1800)と宝暦九年(1759)の墓石が並んでいます。
寛政十二年の墓石は倒れてしまっています。

手前の墓地の入口には3基の小さな石仏。
左側の石仏は寛文八年(1668)のもので、真ん中の石仏は正徳年間(1711~15)のもの、
右端の石仏は風化で崩れていて分かりません。


「大師子吼林釋清潭塔」と刻まれたこの石塔の側面には、「昭和四十八年七月当山兼住
大乘寺髙融建立」と記されています。
近隣の天台宗のお寺で「大乘寺」を探すと、栄町にありました。
「現住職ハ小見尠馨ニシテ最モ宗教哲学ニ通ジ、又詩文ヲ以テ其名江湖ニ知ラル。」
「成田市史近代編史料集」に収録の「八生村誌」にはこうありました。
「八生村誌」は大正三年の編さんですので、その頃は尠馨という住職がいたわけです。
この石碑によれば、昭和48年時点での住職(髙融)は兼任となっていることが分かるので、
大正三年からの60年間の間にこの寺は無住となってしまったわけです。
ここにはたくさんの石仏がありますが、多くは竹やぶにのみ込まれてしまいました。







「村ノ北方字竹内ニ在リ、地坪百弐拾七坪。天台宗天王山ト号ス。本郡龍角寺村天竺山
龍角寺ノ末派ニシテ、開基ノ年号干支及開祖ノ名詳ナラス。境内ニ大師堂アリ。」
(「成田市史近代編史料集」に収録の「下総國下埴生郡大竹村誌」より)
「大竹字竹ノ内ニアリ、薬王寺ト稱ス。天台宗ニシテ中本寺龍角寺門徒タリ。本尊ヲ薬師
如来トス。開山ハ天文二十五年四月法名權律師祐海和尚ナリ。」
(「成田市史近代編史料集」に収録の「八生村誌」より)
「勧行院」の項に「薬王寺」の名前が出てきました。
寺名が変わったという記録は見当たりませんので、記載ミスでしょうか?
天台宗の「薬王寺」は土屋にあり、他に成田地区で同名のお寺はありません。
照于か照千か・・・土屋の薬王寺 ☜ ここをクリック
※ 追 加 (8月5日21:00) ※
「千葉縣印旛郡誌 後編」(大正二年 千葉縣印旛郡役所編)に次の文章を見つけました。
(句読点が一切無い文章で、読みにくいのですが原文のまま引用します。)
「大竹村字竹ノ内にあり藥王寺と稱す天台宗にして中本寺龍角寺の門徒たり本尊を藥師如来
とす開山は天文廿五年四月法名權律師祐海和尚なり二世道香禪定門勸行房は祐海和尚の
父なり院號は即ち勸行房の名より出でたりと云ふ六三部都法大阿闍梨法印覺榮勸行院の
草庵に來り寺院築造に志し遂に間口六間奥行五間の道場を創立せしめたり時に寶暦五年
二月二十八日より寛政二年再建立堂宇間口六間奥行四間半境内百二十七坪民有地第一種
あり住職は小見妙馨にして檀徒十八人管轄廰まで九里三十二町とす八坂神社の神霊と稱
する鏡あり天台宗にて最貴き一字金輸佛長如來にして本宗の秘佛と稱へられ唯一のものな
るに今勸行院に数百年蔵せらるとは大に疑ふ所なりとて本山に照會研究中に屬すと云ふ
寺院明細帳村誌」 (P834~5)
(※ アンダーライン部分は「一字金輪仏頂」の間違いと思われます。)
これで八生村誌の記述にある「薬王寺」は間違いではなく、「勧行院」は院号で、「薬王寺」が
寺号だったことが判明しました。
「一字金輪仏頂」如来の件はその後どうなったのでしょうか?
どこにもこの件についての記述が見つかりませんので、残念ながら伝承通りのものでは
なかったようですね。

荒れているとは言え、廃寺になることも無く今日まで480年の時を紡いで来た「勧行院」。
ガランとした境内には、他のお寺の境内に並んでいるような石塔や石仏、板碑などは(1基を
除いて)見当たりません。
お堂が残っているとは言え、墓地も荒れ果て、新しい墓石も無いことから、檀家も離れて
しまったことが分かります。
これはこれまで見てきた多くのお寺に共通する状況です。
一部のお寺を除いて多くのお寺は無住となり、荒れ果てて地域とのつながりを失っています。
過疎化や少子高齢化、公園墓地や葬祭場の普及などが、地域の文化的中心であったお寺
から人々を遠ざけてしまいました。
また1年後にここに来ても、景色は変わらずにあるでしょうか?
これも時の流れで仕方無いことなのかも知れませんが、とても寂しい気がします。

※ 「天王山勧行院」 成田市大竹759