
郷部橋を渡ると左側には「埴生神社」の裏口が見えています。

橋の下をJR成田線が走っています。
先に見えるのが、前回渡りかけた跨線橋です。
橋を渡ってすぐ、右(画面の左側)の坂道を下ります。

橋の上から反対側を見ると、成田線の我孫子線と佐原・銚子方面への分岐点が見えます。


坂を下って跨線橋に着きました。
向こう側は前回歩いた滑川への旧道へ上る道です。
間違いなく、昔はこの跨線橋のあたりを「松崎街道・なりたみち」が通っていました。

踏切跡(?)から道は大きく左へと曲がります。
下り坂はまだ続いています。


左手斜面に「記念碑」と記された石碑がありました。
碑文を読んでみます。
『抑この道は旧安食みちであり、成田市が道路改修を行うに当り、関係各位に多大な協力を
受け併せて久保庭利平氏により埴生神社御手洗井改修を行い工事の完成をなした。
此に交通安全と地域住民の繁栄を念願する。平成八年十二月吉日 成田市長 小川国彦』
ここは「埴生神社」の御手洗井戸だったようです。
この碑文でも分かるように、昔からこの街道は「安食みち」と呼ばれていて、「松崎街道」と
呼ぶようになったのは歴史的には最近のことのようです。


この井戸の後方は密生した竹やぶの山です。
ここには明治初期に廃寺となった「神光寺(じんこうじ)」がありました。
「神光寺」は真言宗のお寺で、山号は「仏伝山」。
成田山新勝寺の末寺で、ご本尊は恵心僧都作の「阿弥陀如来」でした。
「恵心僧都(えしんそうず)」は平安時代中期の天台宗の僧、源信の尊称です。
「證明寺」の項でも瑠璃台の薬師如来像を刻した高僧として登場しました。
『郷部村にあった門徒寺で、仏伝山神光寺と称し、本尊は恵心僧都作の阿弥陀如来と伝
えられる。石高は六石八斗八升九合。郷部村内に真言宗の檀家が三軒あるが、いずれも
成田山の檀家となっていて同寺は無檀家。享保年間以降、照盤・照寿・寛善・照竜といった
僧侶が住しているが、無住になることが多い。天保十年には後に成田山中興第十三世と
なる照輪もいたことがある。』 (「成田市史 中世・近世編」 P709)
成田山新勝寺の末寺には、「門末六か寺」と呼ばれる、延命院・観音院・正福院・南光坊・
神光寺・円応寺の六寺があり、延命院のみが末寺で、他の五寺はその下の門徒寺と呼ばれ
ていました。
観音院、神光寺は明治初期に、南光院は明治十七年、延命院は明治二十六年に廃寺となり、
現在は米野の円応寺のみが残っています。
明治初期に廃寺となった「神光寺」については、明治十七年に編さんされた「下埴生郡郷部
村誌」には記述されていません。
「神光寺」については「成田の史跡散歩」にこんなエピソードが紹介されています。
『また歴代住職の一人、蹄阿上人は俳人小林一茶と親しくした僧侶で、俳号を至長という。
妻を亡くして、文化元年(一八〇四)に四二歳で出家した人物で、京都の智積院での修業
を経て、同七年四月に神光寺の住職になっている。文化十二年十二月十四日に成田山
参詣を終えた一茶は、成田から木下(現印西市)に向かっているが、このとき至長が道案内
をしているので、通り道になる神光寺にも立ち寄り、句作について語りあったことだろう。』
(P72)
200年前に、この道を一茶も同じように歩いたのですね。

道は急な上り坂となり、前方に「観音堂」が見えてきます。


「観音堂」のご本尊は「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」で、安産・子育ての観音様として
信仰を集めています。
この「観音堂」は「神光寺」の管理下にありました。
廃寺となった「神光寺」の本尊や、市の指定文化財となっている「阿弥陀如来三尊来迎図」
と「地蔵十王図」は、現在はこの「観音堂」に収められています。


狭い境内には小さなお堂や石塔が並んでいます。

観音像が線描されているこの石碑は、昭和9年のものです。

観音像の他の石塔は白い苔に覆われて、紀年銘などは読めません。




この「観音堂」は昭和63年に再建されたものです。
以前はここで、あの「いしばし」が渡り板になったり、井戸の流し台になったりしていました。

石橋地蔵と清水地蔵 ☜ ここをクリック


「観音堂」をあとに、左に大きくカーブする街道は、ようやく平坦になります。
左側に「浅間神社」がありますが、周囲はすっかり住宅地となっていて、その一角にかろうじて
残っているといった感じです。


郷部の交差点が見えてきました。
ここまでは、台の坂を上り、「三竹山道祖神」から「埴生神社」や「神光寺跡」の下までを下り、
そこから「観音堂」まで再び上るという、アップダウンのきつい道のりです。

正面に「石橋地蔵・清水地蔵」が現れます。
ちょっとお参りして行きましょう。
「いしばし橋」の石橋

「いしばし橋」の石橋地蔵

首だけだった清水地蔵

もう一度、石橋地蔵と清水地蔵 ☜ ここをクリック


ここで郷部の交差点を横切ります。
とても交通量の多い所で、左は郷部大橋です。


交差点を渡ると右側にちょっと変わった建造物が見えてきます。
これは郷部配水場の貯水塔で、平成元年から排水を開始しました。


右側に「成田山奉納 永代護摩木山」と刻まれた石柱が見えてきます。
護摩木山とは護摩焚きの護摩札になる木材を切り出す山のことで、成田山に向かう昔の
街道筋には十数ヶ所もあったと言われています。
この辺りは鬱蒼とした森が広がっていたのでしょう。

明治十一年(1878)に建てられた「こま木山道」の石柱。
先ほどの石柱から少し下ったところに立っています。


「こま木山道」の石柱から道を挟んだ反対側の斜面に小さな墓地があります。
證明寺のご住職の話では、ここはニュータウンの開発などの伴い、この一帯にバラバラに
あったお墓を集めた場所です。
宝永、享保、寛延、延享、宝暦、天明、享和などの年号が見え、見事な彫りの墓石もありますが、
いくつかは不心得者によって持ち去られてしまったそうです。






ちょっと怖い橋がありました。
「山口橋」と書いてあります。
下はJRの線路で、渡った先には立派なお屋敷があります。
橋には相当傷みが出ているようで、欄干は工事用のフェンスで覆われています。


街道はひたすら下っています。
成田線の線路が目線の高さになってきました。
この先を右に入ると、つい先日紹介した「證明寺」と「稲荷神社」があります。







「「證明寺」に入る道を過ぎて、少し進むと「山口県道踏切」があります。
踏切の手前で道が大きくカーブしていて、道幅も狭いため、車は踏切上ではすれ違えません。
向こうの方に「雷神社(らいじんじゃ)」の鳥居が見えています。
現在の松崎街道は、踏切を渡って「雷神橋」を渡り、まっすぐ「雷神社」まで進んでから右折して
湯川方面へと向かいますが、昔の街道は踏切の手前を右に入り(ちらっと小路が見えています)
300メートルほど進んでから小橋川を渡り、「雷神社」の先に出ていたようです。
小路は途中で途切れていますが、小橋川を渡る手前の場所にいくつかの石塔が立っています。


寛政六年(1794)の「奉待廿三夜」と刻まれた月待塔。
月待とは、十三夜、十五夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まって、
飲み食いした後にお経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
それぞれに本尊があり、例えば十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、二十三夜は
勢至菩薩が本尊になります。
月は勢至菩薩の化身であるとされていますので、二十三夜講が最も多く見られるようです。



『石仏の場所は三叉路になった追分で、石仏はいずれも道標を兼ねている。一基は中央に
「南無阿弥陀仏」と文字を刻み、左右に「なめ川道」「なりた道」とある。』
『一基は文化七年七月のもので正面に不動明王像を刻み、左側面に「なめかわ道」、右側面
に「右なりた道」とある。』 (「成田の史跡散歩」P219)

手前にある丸い石は、「香取神宮」や「鎮守皇神社」にあった「力石」のように見えます。
何か文字が刻まれていますが、風化でほとんど判読できません。
かろうじて「右なりた」の文字だけが読めるような気がします。

石仏の前にかつての街道の跡がかすかに残っていますが、今は畑に入る人だけが使う農道
になっているようです。
跡は数十メートル伸びて小橋川とJRの線路で断ち切られています。

消えた街道の先を見ると、左にちらりと「雷神社」の鳥居が見えています。
昔の街道は「雷神社」の向かって右側、100メートルほどの所に出たはずです。

道標を兼ねた石仏によれば、三叉路のもう一方は滑川に出る旧道のはずですが、こちらも
かつての面影は無く、単なる畦道と化しています。
少し先に進んでみましたが、田畑に通う人以外には通る人はいないようです。

郷部大橋の下を流れてきた小橋川は、まだ川幅も狭く、葦に覆われて川面は見えません。
次回は小橋川を越えて湯川から松崎に入ります。
