いくつかある「なりたみち」の一つで、利根川から安食(あじき)を通って松崎(まんざき)を
抜け、成田山へ向かう旧街道のうち、前半が「安食街道(あじきかいどう)」、松崎に入った
後半が「松崎街道」となります。

成田への街道の解説は、通常、成田山へ向かう上り(のぼり)の形で行われますが、今回は
趣向を変えて、成田山から松崎方面への下り(くだり)で歩いてみようと思います。
(いろいろ寄り道もしますので、数回に分けて紹介する予定です。)
余計なことですが、
MANZAKI St の表示より、Manzaki Road の方が「街道」のイメージが湧くと思うのですが・・・





成田山の大本堂、仁王門、総門を後に、表参道・台の坂を上ります。



坂を上り切った突き当たりが明暦元年(1655)建立の、当時の本堂であった「薬師堂」です。
「薬師堂」下の歩道に「成田町道路元標」と刻まれた小さな石柱が立っていますが、大正八年
(1919)に設置されたもので、成田から各地への距離を計測するときの起点となります。

薬師堂から右に向かうと、そこは「西参道・三の宮通り」です。


西参道の幸町交差点付近から「松崎街道・なりたみち」は始まります。
「西参道三の宮通り」で紹介した道標にある、“西に上る 安食 木下 道”に従って、西参道
を進むことにします。
西参道・三の宮通り ☜ ここをクリック


交差点から西参道に入るとすぐに「黒田材木店」があり、その先を右に入る路地があります。


すぐに「三竹山道祖神」が見えてきます。
長い道のりを歩いてきた人たちがここで一息ついて、成田山参拝の準備をしたことでしょう。
あっさりと街道のスポットの一つに着いてしまいました。
ここはちょっと戻って、成田山の裏門から出発し直してみましょう。

裏門は土屋から長い坂を上る「裏参道」側にあります。


裏門から幸町の交差点に向かって坂道を上ります。
途中に信号のあるT字路があるので、ここを右へとさらに上ります。


けっこうきつい坂です。
振り返ると成田山の裏門の向こうに、イオンモールが見えています。

しばらく上ると旧道に突き当たります。
左に行く道は「旧松崎街道・なりたみち」に合流する道で、(画面の手前になる)右に行く道は、
土屋を抜けて滑川へ向かう旧道です。
ここを左に300メートルほど進むと、先ほどの「三竹山道祖神」に着きます。(画面の正面方向)


道祖神の脇にはカヤの大木が祠を覆うように立っています。
細い道の路端にへばりつくような場所ですから、お参りするには膝を曲げてかがんで鳥居を
くぐらなければなりません。
鳥居は平成18年に奉納されたものです。


カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれています。
右端は元文四年(1739)の十五夜塔で、「奉唱十五夜講中町同行十八人」と記されています。
また、正面には「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面には「此方
竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
方角が少しおかしいのは、もともとの場所から移されたからだと思われます。
表示からすると、本来は道祖神の反対側のT字路に、道祖神に向かって立っていたのでしょう。

道祖神の脇には六体のお大師様が並んでいます。
台座には幾重にもお札が貼り付けられています。
「三竹山道祖神」は地元では「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
日中でもカヤの大木とNTTのビルに陽を遮られたこの場所は、まさに「北向き」の趣きですが、
「ドウロクジン」とは「道祖神」と六体のお大師様を併せて言った言葉なのでしょうか?
※ ドウロクジンとは「道陸神」と書き、「道祖神」と同じものだということが分かりました。(7/6)

右側に見えているのがT字路で、左に向かうと「埴生神社」への道になります。
右へ入ると、滑川への旧道になります。

先ほど成田山裏門方向から通ってきた道ですが、これが滑川への旧道です。
細くて暗い道ですが、こういう道には何か好奇心がくすぐられます。
もう一度戻ってみます。

フェンス越しにチラリと階段が見えました。


階段は下へ下へと続いています。
普段人が通っている気配は無く、枯葉が積もっています。
この階段はどこへつながっているのでしょうか?

道を覆っていた木々の隙間から、西参道にあるNTTの鉄塔が見えました。


道はまだまだ続きます。
突き当たりにコンクリートの壁が見えてきました。
民家が2、3軒ありましたが、あまり生活感が感じられません。

コンクリートの壁の上はJRの線路でした。
細い道は一応舗装されてはいますが、人が通らないので草ボウボウです。
錆びた跨線橋が見えています。


跨線橋に上ってみました。
成田駅方向には西参道の郷部橋と「三ノ宮埴生神社」の森が見えています。
逆方向には、かすかに成田中学のグランドが見えます。

気になるものを見つけました。
線路の向こう側のフェンスに、一ヶ所だけ扉のようになっている場所があります。
「西参道三の宮通り」の項で見つけた「旧江弁須街道跡」のように、ここには昔、線路を
横切る道があり、踏切があったのではないでしょうか?
跨線橋の向こうは埴生神社側から下ってくる坂道で、この踏切跡(?)に行きつきます。
何か分かったような気がします。
これは、「松崎街道・なりたみち」の旧道跡です!
旧道は「三竹山道祖神」から滑川への道を少し進み、左に曲がって坂道を下り、現在の
JRの線路を突っ切って「観音堂」へと向かっているのです。
「松崎街道」についての数少ない解説には、「三竹山道祖神」から郷部橋を渡り、すぐに
直角に右折して線路わきの坂道を下るように書かれていますが、「街道」としてはいかにも
不自然な形です。
鉄道が無かった昔ならば、「道祖神」からまっすぐ「観音堂」へと街道が伸びている方が
自然な形だと思います。
線路の反対側へは、現在の「松崎街道」に一旦戻ってから向かうことにしましょう。

長い階段を上って、滑川への旧道に戻ってきました。
だいぶ寄り道をしていますが、寄り道ついでに滑川への旧道を少し歩いてみましょう。

民家に挟まれたお堂の中に、「青面金剛」の庚申塔がありました。


お堂の壁に木札が掛けられていました。
「お地蔵さま」とありますが、「青面金剛」なので、狛犬ならぬお猿さんがここにいるわけです。
昭和15年に奉納されたお猿さんには、「たすき」は掛っていませんでした。



風化が進んだ5基の石塔の、一番手前は寛政四年(1792)の「日本廻國塔」で、一番奥が
明治四年(1871)の「馬頭観音」です。

道は下りになります。
左に時計が見えているのは、成田中学です。

成田中学を過ぎ、しばらく進むと、前方に成田山の「平和大塔」が見えてきます。


そして突然、この道は裏参道に出ます。
目の前に見えるのは、かつての軽便鉄道が裏参道を跨いだ橋梁の橋台跡です。
こんなところを鉄道が走っていたことがあるのですね。
ここを走っていたのは、成田鉄道の多古線で、土屋から寺台、法華塚を抜けて三里塚へ、
さらに千代田、五辻、飯笹から多古まで伸びていました。
(軽便鉄道についてはいずれ書こうと思っています。)
滑川への旧道はまだまだ続きますが、これ以上進むと「松崎街道」から離れすぎますので、
そろそろ戻ることにします。

「三竹山道祖神」に戻ってきました。


道祖神を左に見て、そのまま直進すると、ほどなく西参道に出ます。
郷部橋の向こうは「埴生神社」です。


「埴生神社」については何度も紹介していますので、ここでは「下總國下埴生郡成田村誌」
にある数行を紹介するにとどめます。
『埴生神社 本村原標ヨリ凡四町未申ニ方リ字神代ニアリ。社地坪三百坪、祭神ハ埴山姫
之命、鎮座年暦詳カナラス。』
『抑当社ハ古来ヨリ当郡之内十一ヶ村之惣鎮守ニシテ、氏子村と稱スル村々左之如シ。
成田 郷部 寺臺 関戸 和田 下金山 押畑 新妻 山口 東和田 成木新田 』
(「成田市史 近代編史料集一 P76)
「本村原標」とあるのは、薬師堂前の「成田町道路元標」が大正八年に新しく設置される前の
もので、場所は同じであったと思われます。
出だしから寄り道ばかりで、一向に街道を進めません。
次回は「埴生神社」をあとに、「観音堂」、「清水地蔵・石橋地蔵」を経て、山口の「雷神社」
方面に向かいます。
