前回訪問した「證明寺」の裏山に「稲荷神社」があります。

「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡山口村誌」には、この「稲荷神社」に
ついて次のように記しています。
『稲荷神社 字宮田ニアリ。地坪六百八拾坪。宇迦魂神ヲ祭ル。傳者元弘年間千葉貞胤ノ
家臣山田周防ナル者、山城国稲荷ノ四社ヲ勧請シ祭ル。』
『次テ慶長九年郡官天羽氏再ヒ之ヲ建立ス。』 (P214)
「宇迦魂(ウカノミタマ)」は、古事記では「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」、日本書紀では
「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」として登場します。
「須佐之男命(スサノオノミコト)」と、「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘の「神大市比売
(カムオオイチヒメ)」との間に生まれた神です。
穀物の神で、古くから女神とされてきました。
伏見稲荷大社の主祭神で、お稲荷さんとして広く信仰されています。


「稲荷神社」には、「證明寺」への階段下の細い急坂を登ります。
すぐ下に「證明寺」の本堂の屋根が見えています。


登り坂の途中には古木、巨木が何本も立っています。

立派な明神鳥居です。

風雪に削られた手水盤に刻まれていたはずの文字は、すっかり消えてしまいました。


この神社は、元弘年間の創設ですから、690年近くの歴史がある神社ということになります。
再建されたという慶長九年(1604)は、豊臣・徳川の決戦が迫っている時でした。
『享保五年(一七二○)の「稲荷社及証明寺縁起」(山口区有文書)では、その後千葉勝胤の
夫人が難産で苦しんでいたとき、同神社のことを聞き勝胤が詣でたところ、夫人の痛みは消え
無事出産できた。深く感激した勝胤は社殿を修造し、かつ神田三○石を寄進したという。』
『だが戦乱によって荒廃し、慶長九年(一六○四)に天羽忠兵衛なる武士が再建した。』
『明治四十二年村内の道祖神社・愛宕神社・大鷲神社などを合祀している。』
(「成田市史 中世・近世編」 P804)
千葉勝胤が寄進した神田は、その後の戦乱の中、幕府に没収されましたが、この一帯の
字(あざ)の宮田(きゅうでん)という名前が、その名残りとなっています。
平成5年には、合祀されている全ての神社の社号標が建立されました。
古い祠が残っているもの、祠の一部が残っているもの、新しい社号標のみのものなど
いろいろですが、木々の間に点在する全ての社号標と祠を見てみましょう。
古峯神社(ヤマトタケルノミコト)

古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と書かれます。
その蛮勇ぶりが父の景行天皇から疎まれ、西征に、そして東征へと向かわされ、大和への
帰途に現在の三重県北部で没したと伝えられる、古代史最大の英雄です。
ニュータウンの吾妻にある「吾妻神社」は、ご祭神が「日本武尊」です。
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社 ☜ ここをクリック
三峯神社(イザナギノミコト)

古事記では「伊邪那岐命」、日本書紀では「伊弉諾神」と書かれます。
神世七代の最後に生まれた神で、妻の「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とともに多くの神や
国造りを行いました。
多古町の「六所大神」には、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」
が他の四柱とともに祀られています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック
大山阿夫利神社(オオヤマツミノカミ)

古事記では「大山津見神」、日本書紀では「大山祇神」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神で、山の神とされています。
不 明 (社号標がありません)

享保十二年(1727)の紀年銘が読めます。
雷神社(オオイカヅチノカミ)

「伊弉冉尊」の死体の頭より生まれた神で、八種の雷神(やくさのいかづちかみ)の一柱。
ひと山越えてJRの線路と小橋川を越えた所に「雷神社(らいじんじゃ)」があります。
1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック
愛宕神社(カグツチノミコト)

古事記では「火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)」または「加具土命(カグツチノミコト)」
と書かれ、日本書紀では「火産霊(ホムスビ)」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神ですが、火の神であったため、母の
「伊弉冉尊」が出産時に大火傷を負って亡くなってしまいます。
悲しんだ「伊弉諾尊」によって、「加具土命」は十拳剣で殺されてしまいました。
「加具土命」の血からは八柱の神が、死体からも八柱の神が生まれています。
浅間神社(コノハナノサクヤヒメ)

古事記では「木花之佐久夜毘売」、日本書紀では「木花開耶姫」と書きます。
先ほど見た、大山阿夫利神社の「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘で、「天照大神」
(アマテラスオオミカミ)の孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の妻です。
全国の多くの浅間神社のご祭神として祀られています。
不 明 (社号標がありません)

南無阿弥陀仏・・・と刻まれているようですが、判読が難しい状態です。
元文四年(1739)の記年銘が見えます。
このころは時代劇でお馴染の、八代将軍徳川吉宗と、南町奉行・大岡忠相(越前)が活躍
した時代です。
大鷲神社(ヤマトタケルノミコト)

栄町にある「大鷲神社(おおわしじんじゃ)」も同じ「日本武尊」をご祭神にしています。
金毘羅神社再建碑 年代不詳

金毘羅神社(オオクニヌシノミコト)

「大国主(オオクニヌシ)」は、国津神の代表的な神で、古事記や日本書紀にも記されている
天孫降臨の物語で、天津神に国土を献上したことから、「国譲りの神」とも呼ばれています。
国譲りの際に、大きな宮殿を建てて欲しいと願い出て、出雲大社の祭神となりました。
因幡の白兎の話は良く知られています。
鹿島神社(タケミカヅチノカミ)

「鹿島神宮」のご祭神として知られています。
剣の神、また雷神でもあり、相撲の元祖ともされています。
古事記では「建御雷之男神」または「建御雷神」と書かれ、日本書紀では「武甕槌」または
「武甕雷男神」と書かれます。
「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「加具土命(カグツチノミコト)」の首を切り落とした際に、
剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱です。
香取神社(フツヌシノミコト)

「経津主神(フツヌシノカミ)」は日本書紀のみに登場し、古事記には登場しません。
「香取神宮」のご祭神として知られています。
利根川を挟んで香取・鹿嶋の両神宮が相対する位置にあるように、「鹿島神宮」の「武甕槌神
(タケミカヅチノカミ)」と対で扱われることが多くあります。
天満宮(スガワラノミチザネ)

「菅原道真」(845~903)は平安時代の貴族で、学者・詩人・政治家として活躍しました。
宇多天皇に重用され、順調に出世の階段を昇ったものの、讒訴によって大宰府に流され、
不遇のうちに没しましたが、没後天変地異が続発し、道真の祟りだとの噂が広まり、怨念を
鎮めるために天満天神として祀られることになりました。
死後にも正一位・太政大臣の官位を贈られるなど、出世の階段を昇りつめたことや、優れた
学者・詩人であったことから、現在は学問の神様として知られるようになっています。
子安神社(コノハナノサクヤヒメ)

「木花之佐久夜毘売」は子安神社のご祭神として祀られることも多い神様です。
道祖神社(サルタヒコノミコト)

古事記では「猿田毘古神」、または「猿田毘古之男神」、日本書紀では「猿田彦命」と書かれます。
天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を道案内した国津神です。
中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、信仰を集めました。
また、鼻長七咫、背長七尺、目は八咫鏡のようで、顔が鬼灯のように照り輝いているという姿
から、天狗の原型であるとも言われています。
※ 「咫(あた)」は手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ。
古い祠の一部が残されていても、傷みが激しく、年号が読めるものはありませんが、
点在するたくさんの祠と社号標を見つけながら境内を歩くのも、けっこう楽しいものです。
「下總國下埴生郡山口村誌」に、「稲荷神社」に接する場所に「穴八幡」があったとの記述
を見つけました。
『穴八幡 宮田ニアリ、稲荷神社ト接地ス。一ノ洞窟アリ、中ニ一個石アリ。文字塗抹シテ
弁識スルニ由ナシ。又骸骨両三本アリ、土人之ヲ穴八幡ト称ス。』
(「成田市史 近世編史料集一 P215)
村人がお堂を建て、近隣の人々が頻繁にお詣りしていたようですが、何故か幕府によって
来詣を禁じられ、洞窟は埋められてしまったようです。


この神社が創建された元弘年間(1331~1333)は、元弘の乱によって鎌倉幕府が滅亡
するという激動の時でした。
この神社を創建した「山田周防」の主君・千葉貞胤は、千葉氏第11代の当主で、元弘の乱
では当初鎌倉方に与し、後に新田義貞に与して鎌倉を攻めたり、その後も南北朝を行き来
するなど、綱渡りの処世をした人物です。
そうした貞胤の家臣でありながら、しかも時代の騒乱のさなかに、この稲荷神社を創建した
山田周防という人物は如何なる人物だったのでしょうか?
残念ながら、「山田周防」に関する資料を探し出すことができませんでしたが、とても興味
ある人物なので、いつか彼の痕跡を見つけたいものです。

※ 「稲荷神社」 成田市山口71