
さて、これは何でしょう?
実は、これは「橋」なのです。(橋だったと言うべきでしょうが・・・)
詳しくは後ほどに。

「石橋地蔵」と「清水地蔵」は、郷部交差点から成田山に向かう「西参道三の宮通り」の
入口にあります。
この通りは県道18号線の旧道でもあります。
木立に囲まれてちょっと見つけにくいかもしれませんが、赤い幟がたくさん立っています。

三の宮通りからちょっと下ったところに石段があり、境内に入れます。
石段の左側に見えるのが「清水地蔵」、右奥に見えるのが「石橋地蔵」です。
狭い境内ですが、手入れが行き届いています。



「石橋地蔵」は、昔、小橋川に架かっていた「いしばし橋」のたもとに立っていたお地蔵様です。
明治42年(1909)と刻まれています。
長い間風雨にさらされて、さすがにお顔が分かりにくくなっています。

「石橋」の地名は、旧郷部村の字(あざ)で、そこに架かっている橋なので「いしばし橋」と
呼ばれたのか、「石の橋」が架かっていたので「石橋」が字になったのか・・・。
いずれにしろ、このお地蔵様が立っていた「いしばし橋」は、そうとう昔から小橋川に架かっ
ていたようです。
その橋がこの石板だとすると、昔の小橋川は小さな流れだったのでしょう。
『本村ハ此橋ヲ以テ中央トス幅五尺余リ長七尺余盤石ナリ』
(成田市史 近代編史料集一 P43)
横幅が約1.6メートル、長さが約2メートルの石板です。
当時の小橋川は、
『幅六尺、深壱尺ヨリ貮尺位』(同)
とありますから、1.8メートル程度の川幅で、18~30センチの深さの小川ですね。
これなら、この石板を渡せば、なんとか橋の役割は果たせたでしょうね。





石段を上がってすぐ左には「清水地蔵」があります。
もともとは郷部ヶ原の山林の中にあった、首だけしかないお地蔵様でした。
お地蔵様があった場所には清水が湧き出していたので、「清水地蔵」と呼ばれていました。
『~そして清水のことは、首の清水とか地蔵の清水と呼んでいたという。
というのは当時はこの地蔵に胴体がなく、首だけが置かれていたからである。
なぜ首だけなのかは今もって不明になっている。』 (「成田の史跡散歩」P74~75)
昭和39年に住民により胴体が作られ、現在のお姿となりましたが、周辺の開発のため、
昭和45年に観音堂に移され、昭和59年にここに移されてきました。




小倉 博氏は、 『古墳時代の石棺の蓋のようである』 (「成田の史跡散歩」P74)と表現して
いますが、なるほどそう見えますね。
小橋川の川幅が広くなると、この石板は外され、旧街道(松崎街道・なりたみち)の「観音堂」
の渡り橋に転用されました。
その後、観音堂の井戸の流し台になったり、工事中に捨てられそうになるなどの試練(?)を
経て、ようやく記念碑としてこの境内に落ち着くことになったのです。
この経緯を知ると、思わず“ご苦労様でした”と声をかけたくなりますね。



郷部大橋をくぐるように坂道が下っています。
坂道が曲がったところに、「辧天宮」と「石神様」があります。
「辧天宮」と刻まれた石板がはめ込まれ、には享保十九年(1734)と記されていますが、
これは祠の建立の年代で、石板は最近のものです。
「石神様」のお堂は平成13年に建てられました。
中には何やら怪しげなモノが鎮座しています。


郷部大橋をくぐります。


300メートルほど下ると、西野内踏切があります。
向こうに見えているのは「成田国際福祉専門学校」です。
ここは見通しが良いので、鉄道マニアの間では撮影スポットとして知られた踏切だそうです。

電車が通過して行きます


踏切を渡ると「ごうぶこばし」がありました。

さて、「いしばし橋」はどこにあるのでしょう?
下を流れる小橋川の上流を眺めると、遠くに小さな橋が見えています。
あれが「いしばし橋」でしょうか?


ありました!
「いしばし橋」です。
小さい橋ですが、コンクリート製のしっかりした橋です。

流れが見える幅は2メートルくらいですが、葦が群生していて実際の川幅は分かりません。

『源ハ印旛郡江弁須村ノ北ノ山間ヨリ発シ、本村字池田ノ大清水ノ流ヲ合、小流シテ成田村
ノ流ト石橋ニ合、稍溝洫ノ狀ヲナシ 本村ハ此橋ヲ以テ中央トス幅五尺余リ長七尺余盤石ナリ 幅六尺、
深壱尺ヨリ貮尺位、西ニ趣キ山口村ニ落ツ。曲流シテ押畑、松崎、宝田數村之流ヲ合セ
新妻川ニ入ル。平時緩流ナリ。』 (「成田市史近代編史料集一」P43)
郷部村誌には、「いしばし橋」付近の小橋川をこう書いていますが、護岸工事によって両岸の
幅は広がったものの、流れの幅は明治の頃からあまり変わっていないようです。
もちろん、かつての石板では渡れませんね。

橋を渡った先には最近開発された住宅地があり、その後ろはJR成田線の線路です。
線路に向かってコンクリートの道路跡のような場所があります。
線路の手前でフェンスに阻まれているこの場所は、踏切跡のような気がします。

どうしても気になって、「ごうぶこばし」から「郷部大橋」を渡り、地蔵堂を回って線路の反対側
を探ってみました。
線路の上は「西参道三の宮通り」(県道18号線旧道)のはずです。
そして、線路の反対側に辿りつきました。
こちらは西参道から細い坂道を線路に向かって下った場所で、以前は踏切だった様子です。
『上流のいしばし橋の道はもとは江弁須街道と呼ばれ、原野であったニュータウンを抜けて
公津地区の江弁須に向かう重要な道であった。』 (「成田の史跡散歩」P74)
江弁須街道は鉄道やニュータウンに寸断され、今やどこを通っていたのかも分かりませんが、
わずかに残る数百メートルを見つけただけでも、とても得した気分です。

明治時代に書かれた郷部村誌には、この二つの地蔵堂についての記述はありません。
石橋地蔵は石板の「いしばし橋」のたもとに立ち、清水地蔵は首だけの姿で山林の清水
の前に置かれていました。
開発が進んで、今はこの場所に落ち着きましたが、小川の流れと湧き出る清水を見てきた
二つのお地蔵さまにとって、交通量の多い公園通りと県道18号線旧道に面したこの場所の
居心地はどうなのでしょうか。

地蔵堂の前の紫陽花は咲き始めていますが、まだ色づいてはいません。
澄み渡る空のような青を見せてくれるのは、もうひと雨、ふた雨必要でしょうか?

※ 「石橋地蔵」「清水地蔵」 成田市郷部480
19枚目の写真の下に、石版が写っていて、「風土記」の文字がちらっと見えますが、
なんて書いてあるのか 「興味があります」
またいつか時間のある時にでも寄って、書いて頂けるとありがたいです。
m(_ _)m
わかりました。近々立寄ってみましょう。
碑文についてはこの場所に再度返信の形でお知らせします。
お尋ねの石神様の碑文を読みに行ってきました。
この碑文は、成田山の霊光館館長で、成田の郷土史の第一人者である
小倉博氏の撰文になるものです。以下、原文のまま記します。
『樹木や池に神霊が宿るとする信仰とともに石にも神霊が宿るとする
石神信仰は古くからあり、「風土記」などにも石神のことが記されて
いる。伊弉諾命が黄泉の国から逃げるとき、追いかける悪霊を防ぐのに、
塞ぎの大石を道反大神としたのが、石神の最も古いものとされる。
石神は塞ぎの神として道祖神になったのをはじめ、恵比寿や火の神とも
習合して、さまざまな信仰をもつようになった。
そのひとつの形によって性器崇拝から良縁安産を願う産神ともなった。
郷部の石神様も産神として信仰され、若い女性の良縁、子授け安産を
祈願する神として信仰されている。』
伊弉諾命が神避された伊弉冉命恋しさのあまり黄泉の国へ赴いたものの、
伊弉冉命の変わり果てた姿に驚き逃げ帰る途中で大石で黄泉比良坂を塞ぎ、
その大石を道返之大神としたという古事記の物語から、「石神」の由来を
記したもので、特にここの石神様の由来ということではなさそうですね。
我儘を聞いて調べていただきありがとうございます。
ああ、石神様はそちらの方でしたか (なるほど(怪しげなモノ)) 産神様なら重要ですよね。
「風土記」とともに「イザナギ」「○○大神」の字も見えたのでなにが書いてあるのか興味が出たのですが。 そのあたり有名なエピソードですね。
・・・でもなるほど、狛犬とか石仏、お地蔵様なんかも魂が宿りますものねえ。