
この観音堂は、もともとこの地にあった真言宗の「駒形山真乗院」の一角にありました。
「真乗院」は元禄十六年(1703年)の開山と伝えられています。
明治42年に「真乗院」は酒々井町の「東光寺」に合併となり、本堂と地蔵堂が移設されて、
「観音堂」だけがここに残されました。

目の前には田んぼが広がる、のどかな景色です。

手水鉢には寛政十二年(1800年)と刻まれています。




「千葉県近世社寺建築緊急調査報告書」(1978年 千葉県教育委員会)には、「真乗院
観音堂」として次のように記されています。
「観音堂は、沿革については明らかではないが、その本堂に馬頭観世音を祀る。建築年代
を証する棟札等の資料はないが、堂内に元文五年の掲額、寛保二年の宮殿垂幕がある。
(中略)全体の手法は、前記の潮音寺観音堂をさらに簡略化したもので、建築年代は掲額
や垂幕に記された元文、寛保年間をあまり遡らない十八世紀前期の建築ではないかと考え
られる。」
元文五年は1740年、寛保二年は1742年です。
少なくとも280年は経っているお堂ということになりますが、「真乗院」の開山とされる元禄
十六年(1703年)から時を経ずして建てられたのでしょう。



数段の石段を登った右手にある「普門品千部供養塔」は、享和三年(1803年)と読める
ような気がします。
「新坂東拜禮記念」とある碑は、昭和15年に建てられました。

左手には境内で一番大きな石碑が建っています。
「伊勢代々講 大廟參拜紀念」と刻まれ、大正6年と記されています。
この石碑と並んで5基の石碑が並んでいます。

明治26年・四宮順教先生の碑


月山 湯殿山 羽黒山 登山参拝記念


昭和50年・普門品拾萬巻供養塔と明治30年の寄附連名碑
後方にはさらに石碑が並んでいます。

文化十一年(1814年)の「奉 供養念願成就 湯殿山 羽黒山 月山」の碑。
側面には「西国 秩父 坂東 願成就」と記されています。

半分土に埋もれた、文化七年の「如意輪観音」。
今風の簡略化されたデザインのような感じがします。

境内の左奥に、「新橋観音堂の石造物群」と呼ばれる5基の石仏、板碑があります。

前列中央の「馬頭観音像」。
延享元年(1744年)の紀年銘があり、富里市内最古の馬頭観音です。

前列左の「馬頭観音」。
安永二年(1773年)の紀年銘が刻まれています。

延享四年(1747年)の「十五夜塔」。
延命地蔵菩薩が彫られ、「奉供養十五夜講成就之攸」と刻まれています。
富里市内では唯一の十五夜塔だと言われています。

文化四年(1807年)の「馬頭観音」。
この像を見た時は「馬頭観音」とは思いませんでしたが、傍らにある説明板には「馬頭観音」
と書かれています。
以前、小泉の「自性院」で見た「馬頭観音」と同じようなポーズで、表情はさらに柔和です。
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後列左の板碑については、説明板に次のように書かれています。
「後列左の下総型板碑は、絹雲母片岩の一枚岩を利用した「石製塔婆」です。正面中央には
キリーク(阿弥陀如来)、その左下には(観音菩薩)、右下にはサク(勢至菩薩)の種子が刻まれ、
その右の縁辺には各五種子が刻まれています。風化が進んでいますが、向かって右側の種子
はバン(大日如来)、バイ(薬師如来)、カ(地蔵菩薩)、マン(文殊菩薩)、カーン(不動明王)と
判読されます。銘文には「孝子等敬白」の字句が見られ、亡き親の追善供養のため、遺子たちが
造立したものであることがわかります。本市以南においては下総型板碑の造立例は確認されて
おらず、下総型板碑の分布南限を示す貴重な例といえます。」

境内の左奥にはお堂があり、3体の石仏が並んでいますが、何のお堂かは分かりません。



境内には首が無くなった石仏や、杉の根元にはめ込むように置かれた石仏、ツタに覆われた
墓石などが散在しています。



明治6年にはこの「観音堂」があった「真乗院」に小学校が開校しています。
「新橋小学校の正式名称は次の通りであり、新橋、中沢、新中沢を学区とし、新橋村
真乗院で開校した。
第廿六番中学区 甲第百六拾弐番新橋小学校」
(富里村史 P798)
富里地区では「普門寺」、「円勝寺」と並んで最も早く小学校を開設した「真乗院」が、
如何なる事情から酒々井の東光寺に合併となり、本堂や地蔵堂まで移設することと
なったのかは分かりませんが、「小学校」という、いわば地域のコミュニティの中心に
あった場所の、今の姿は寂しいものがあります。

※ 「新橋観音堂」 富里市新橋809