ここは、もともとは「来迎寺」の境内でしたが、いまでは民家や道路で分断されています。


石段の下、左右に石柱が立っています。
左側の石柱には、「印旛沼出現 善導大師 文政十三年庚寅」と刻まれています。
文政十三年は西暦1830年になります。
右側の石柱は「南無阿弥陀佛」と刻まれた、天保五年(1834年)のものです。

石段の脇には「六地蔵」があります。
人は生前の行いの善悪によって、その死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道を
輪廻・転生すると言われ、その六道それぞれに衆生救済のために檀陀・宝印・宝珠・持地・
除蓋障・日光の六地蔵が配されているという信仰から、墓地の入口などに六体のお地蔵様
を並べ建てることが行われています。

「下總國下埴生郡松崎村誌」には、「善導大師堂」について
善導大師堂、字備後ニアリ。境内百九十二歩ヲ有ス。松葉山来迎寺ノ別當ナリ。
と記しています。(「成田市史 中世・近世編」 P219)
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また、由来については以下のような説明があります。
抑々善導大師ノ由来ヲ探求スルニ、往古唐ノ長安、修南山ノ瀧壺ヨリ出現シ、四百餘年ノ
星霜ヲ経テ、日本洛陽ノ真葛ガ原ニ顕ハレ、其後、建暦元年ノ春人皇八拾四代順徳帝ノ
御宇ニ大師ノ尊像筑州博多ノ津ニ着キタルヲ里人奉迎シテ、草庵ヘ安置シケルトナリ。
長安の修南山の滝壷から発見されたとされる、「善導大師像」は、400年以上の年月を
経て建暦元年(1211年)に筑州博多の地に渡り、小さな庵に安置されました。
其後安貞元年八月十四日夜當國ノ城主千葉六郎太夫入道、法阿沙弥善導大師ノ靈夢ヲ
蒙リ、印旛湖ノ湄リ埴生ノ郡松崎ト云里ヲ尋ネ給フニ浦辺近キ芦間ヨリ光明赫々、其容貌
半バ金色ニテ、腰ヨリ上ハ黒染ノ木像壱軀ト水難除ノ守船板名号ヲ発見シ、大ニ警キ再拜
崇敬シ、則チ松崎村ヘ草堂ヲ建設アリ。
安貞元年(1227年)に、夢のお告げで千葉六郎が印旛沼から引き揚げた木像は、かつて
筑州博多にあって長らく行方知らずとなっていた「善導大師像」であったというわけです。
其頃当村ニ善心坊ト云フ道心者ヲ呼出サレテ大師ヲ預ケシトナリ。是レ當寺古代ノ開基
ナリト云。既ニ千葉家モ断絶シ世モ縡ニ移リ変リテ寛永元年、當住廿八世純誉法印ノ
時代トカヤ、謂アリテ天台宗ニ改メラレシトナリ。 以上善導大師ノ縁起 今猶印旛湖中ニ
善導堀ト称シ、湧水ノ深淵ヲ残存ス。
これにより開基は安貞元年、寛永元年(1624年)に天台宗に改宗したことが分かります。
790年近くもの歴史のあるお堂だということになります。
現在のお堂は嘉永五年(1852年)に再建され、平成10年に改修されたものです。
ご本尊は「善導大師」。
木像は、カヤ材の寄木造りで1.6メートルの大きな立像です。
善導大師(613~681)は、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した唐の名僧で、
曇鸞・道綽・懐感・少康とともに浄土五祖の一人とされています。

天保(?)と読める狛犬

天保九年(1838)の常夜燈



一部が欠けて打ち捨てられたような手水鉢。
寛延四年(1751年)と記されています。

こちらは平成11年の新しい手水鉢。
側面には古い手水鉢にあった「寛延四年辛未天閏六月良日」が転記されています。


「下總國下埴生郡松崎村誌」に出てくる、善導大師像を印旛沼から引き揚げた「千葉六郎太夫
入道」とは、千葉介常胤の六男の東胤頼(とう たねより)のことです(六郎は通称)。
久寿二年(1155年)に生まれ、安貞二年(1228年)に没しました。
下総国東庄に父・常胤から所領を与えられて東六郎を名乗り、東氏の初代当主となりました。
官途は父より上位の従五位下です。
五位は俗に「大夫」と称されるため、千葉六郎大夫と呼ばれたようです。
晩年は上洛して法然上人の弟子となって法阿弥陀仏と号し、源頼朝朝から絶大な信頼を
得ていました。
旧小見川町(現・香取市)の芳泰寺に胤頼夫妻の墓と伝えられる供養塔があるそうなので、
いつか訪ねてみたいと思います。

本堂の軒下にある掲額には、「善導大師 願ひの利益 松ヶ崎 闇夜を照らす 法の月影」
と歌が書かれています。

正面の龍の彫刻。
迫力満点です。
裏手の墓地には古く、立派な墓石が並んでいます。

寛文十二年(2基対)



この墓石には「夢幻童子」と刻まれています。
“夢幻、ゆめまぼろし”とは、天保十一年(1840年)に幼くしてこの世を去った子どもに、
親はどんな思いでこの戒名を付けたのでしょうか。

天和二年(1682年)の如意輪観音像が刻まれた墓石。
この年は世に言う「お七火事」の天和の大火が起きた年です。

寛延二年(1749年)の墓石。
この如意輪観音像は珍しく厳しい表情です。

普門品一千巻供養の碑。

享保二年(1717年)の「十九夜塔」。

境内の右手に建つ「不動堂」。

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本堂の左手に建つ2つのお堂の名前は分かりません。

樹周り5メートル以上はあるシイの大木。
長い年月にわたってこの場所に立ち、来迎寺の境内の一角にあって、大梵鐘の音を聞き、
時代の流れから、道路や民家によって境内が分断される日々を眺めてきたのでしょう。

階段を登り切った所に立つ「護摩木山」の碑。
昭和3年と記されています。


善導大師像は全国各地に見られますが、特に京都の知恩院や善導院の立像、奈良の来迎寺
の座像などは良く知られています。
ここ、善導大師堂の善導大師像については、画像を見つけることができませんでした。
前述した東胤頼(東六郎太夫)が、善導大師像を印旛沼から拾い上げたとされる安貞元年
(1227年)には、京都である事件が起こっています。
東胤頼が師事した法然は、建暦二年(1212年)に没していますが、その死後15年目に
あたる嘉禄三年(1227年・同年安貞に改元)に、天台宗からの圧力によって弟子であった
隆寛、幸西らが流罪となり、僧兵に廟所を破壊されるという事件が発生しました。
法阿と名乗っていた胤頼らは、法然の遺骸を掘り起こして嵯峨の二尊院に隠したものの、
天台宗からの攻撃は続き、太秦の来迎院(現・西光寺)へ、さらに西山の三昧院(現・光明寺)
へと転々とせざるを得ませんでした。
十七回忌となる安貞二年(1228年)1月になって、弟子たちの手でようやく荼毘に付され、
その遺骨は知恩院などに分骨されました。
善導大師像が拾い上げられた時期と、この事件の時期は重なっています。
京にいた胤頼が印旛沼で大師像を拾い上げることなど・・・、と野暮は言わぬこととしましょう。
法然に心酔していた胤頼の想いが、この伝承となったのでしょうから。
それにしても、創建から400年あまり経った寛永元年(1624年)になって、恩師・法然の遺骸
を必死に守った自分を攻撃した、天台宗に改宗となる皮肉な運命をどう思っているのか、聞い
てみたい気がします。

※ 「善導大師堂」 成田市松崎247-7
JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分
北総鉄道成田湯川駅から徒歩約15分