
「来迎寺」の創建年代は不詳とされています。
天台宗のお寺で、山号は「松葉山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
門柱には「宗祖大師御遠忌記念」と記されており、大正9年に建てられたものです。

明治16年に千葉県令船越衛の通達によって編さんされた町村誌には、
「来迎寺、村ノ中央字備後ニアリ。境内五百四十六坪。天台宗松葉山ト號ス。下埴生郡
龍角寺村天竺山龍角寺ノ末派ナリ。其開基ノ年月ニ至テハ今詳明スベカラズ。」
とあります。(成田市史 近代編史料集一 P218)
また、後に近隣の村が合併してできた八生村の村誌(大正3年頃の作成)には、
「松崎字備後ニアリ。天台宗ニシテ安食町天竺山竜角寺ノ末寺ナリ。本尊ヲ阿彌陀如来
トス。開基詳カナラズ。鐘楼ニハ天録十四年十二月ト刻セル大梵鐘アリ。法要ハ毎十三日
ノ待夜ト十四日ノ縁日トナリ。」
とあります。(同P247)
今は鐘楼も梵鐘も姿がありませんが、大正初期まではそれなりに立派なお寺だったようです。
記録が見当たりませんが、後述の「本堂再建の碑」が大正14年と記されていることから、
火事で焼失してしまったのではないかと想像されます。
なお、梵鐘に刻まれていたとされる「天禄十四年」とは何かの間違いでしょう。
天禄年間は西暦970年から973年までの4年間しかなく、天禄十四年は存在しません。
梵鐘にこのような間違いが刻まれることは考えられませんから、記録ミスだと思います。
まず考えられるのは天禄四年(973年)を十四年と誤記した、ということですが、この年代
に制作された梵鐘であれば間違いなく重要文化財級のものですから、もっとしっかりとした
記録が残っているはずです。
また、年号を間違えて刻んであったとすれば、記録を取る時にその間違いには当然気付く
はずでしょうから、それについての記述があってしかるべきでしょう。
次に考えられるのは「天禄」ではなく「元禄」の記録間違いではないか、ということです。
とすると、その梵鐘は元禄十四年(1701年)の制作となります。
どうやらこちらの方が現実的ですね。
現在の本堂は一見民家風で、寺額もありません。

境内にある成田市指定天然記念物の榧(カヤ)の大木です。
説明板によると、
「この“カヤ”は、わが国において、学術上価値があり、植物学上においても、このような
大樹は記録的なもので、貴重なものといえます。」
樹齢は不明ですが、目通り樹周り3.9メートルと書かれています。
この説明板は昭和55年に立てられたものですが、それ以降も成長は続いているようで、
4.3メートルと落書きがされています。


「八生村誌」にこのカヤの木に関する記述があります。
日暮ノ榧
松崎来迎寺境内ニアリ。周圍二間。丈高カラズシテ其枝八方二垂レ、殆ント一反歩餘ヲ壓ス。
夏季此ノ下ニアルヤ涼気自ラ来リ去ル能ハズ。遂ニ日ノ暮ルゝヲ覚ヘズト。因リテ此名アリ。
(成田市史 近代編史料集一 P244)

大正14年の「本堂再建寄附芳名の碑」。
見たところ、現在の本堂はその後にさらに建て直されています。


境内の左手にあるお堂。
中の石仏は風化してお顔も平たくなっています。


「二十三夜塔」。
弘化四年(1847年)の紀年銘があります。
室町時代から;始まった月待講」は、江戸時代に入って急激に全国に広まりました。
特定の月齢の夜に「講中」と称する仲間が集まって、飲み食いをしながら、経などを唱えて
月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
その際に供養のために建てた石碑が「月待塔」です。
地方によっていろいろな月待講がありますが、月齢によってもお祭りする仏様が違います。
十三夜待 虚空蔵菩薩
十五夜待 大日如来、聖観音など
十六夜待 大日如来、阿弥陀如来など
十七夜待 千手観音、聖観音など
十八夜待 千手観音、聖観音など
十九夜待 如意輪観音、馬頭観音など
二十夜待 如意輪観音、十一面観音など
二十一夜待 如意輪観音、准胝観音など
二十二夜待 如意輪観音
二十三夜待 勢至菩薩
二十六夜待 愛染明王、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)
(参考:Yahoo!知恵袋)
なかでも、月が勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も
盛んに行われるようになりました。


「子育大明神」の掲額があるお堂。

掲額の文字が消えてしまって、何のお堂か分かりませんが、斜めから見ると「天神社」と
読めるような気がします。
後述する資料から推測すると、「太子堂」かもしれません。

裏手にある墓地には、比較的新しい墓石が目立ちます。
墓地の外れの一角にわずかに数基の古い墓石があり、文久とか慶應の年号が読めました。


「成田市史 中世・近世編」に、来迎寺について触れている文章がありました。
「来迎寺は山号を松葉山と号し、阿弥陀如来を本尊としている。 創建など明らかでないが、
文禄三年の「松崎村御縄打水帳」に寺名がみえるので中世にさかのぼる。 除地に認可
された東西六十五間・南北八〇間の境内に、五間・六間の本堂をはじめ善導大師堂、
阿弥陀堂、鐘楼堂、聖徳太子堂などがあり、また浅間宮・香取宮などを支配している。」
(P784)
かつてここに、東西約118メートル、南北約145メートルという広い境内があったとは思え
ない現状ですが、文禄年間にその名が出てくるのであれば、少なくとも420年以上の歴史
を有するお寺ということになります。
今は民家や道路で隔てられた場所にある「善導大師堂」も、もともとは境内であったわけです。

通りに出るとそこは「善導大師堂」の裏手にある墓地の外れです。

この通りが、かつての境内を分断しています。
郵便局もある生活道路になっています。

「来迎寺」の境内からは、わずかに「善導大師堂」の屋根が望めるだけです。

カヤの大木の枝が、境内の3分の1ほどを覆っています。
なるほど、村誌にあった通り、夏はこの木の下はとても涼しいことでしょう。

※ 「来迎寺」 成田市松崎254
JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分
北総鉄道成田湯川駅から徒歩約15分