こちらにもいくつかのお社が祀られています。

境内の左手一番奥には、摂社の「匝瑳神社(そうさじんじゃ)」があります。
ご祭神は「磐筒男神(いわつつおのかみ)」と「磐筒女神(いわつつめのかみ)」。
香取大神の親神との説明板があります。
香取大神の親神とはどういうことでしょうか?
神話の世界では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の
死因となった軻遇突智(かぐつち)を斬ったとき、十束剣から滴る血が天の川のほとりの岩を
染めたため、そこから岩裂神・根裂神(いわさくのかみ・ねさくのかみ)が生まれ、その御子の
磐筒男神・磐筒女神(いわつつおのかみ・いわつつめのかみ)の両神を親として経津主神が
生まれたとしているのです。

お社の奥にあるこの石灯篭は寛政十二年(1800年)のものです。

本殿裏の「桜馬場」へと抜ける場所にある、末社「桜大刀自神社(さくらおおとじじんじゃ)」。
ご祭神は「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」です。

本殿の向かって右奥にある、摂社「鹿島新宮」。
ご祭神は「武甕槌大神」、「天隠山命(あまのかくやまのみこと)」。
半周しただけですが、拝殿から本殿に至るこの社殿は、本当に大きな建造物です。

幾多の変遷を経て、慶長十二年(1607年)に大造営が行われ、さらに元禄十三年(1700年)
に再度造営が行われて今日に至っています。
慶長の大造営の前、永正十三年(1516年)の「香取神宮神幸祭絵巻」に描かれている境内の
様子を、「佐原市史」が次のように解説しています。
「白壁・朱柱の楼門の前には左右に褐色の仁王像が立つ。楼門を入ると御幣棚があって
御留守役の控える建物があり 中門があって正神殿へとつながっている。」 (P274)
また、正神殿の注目点として以下の5点を挙げています。
①行五間に妻三間、檜皮葺切妻造り、前面に一間の階隠がある。
②珍しいのは正面中央の白壁で、その左右に丹塗りの扉がある。
③屋根には瓦木の上に山形の堅魚木四本を置いて、二羽の鳳凰を載せる。
④瓦木の端には鬼板を飾り、破風板には雲形が描かれている。
⑤目をひくのは丹塗りの柱ごとに龍頭が取り付けられていることである。 (P274)
現在とは大分異なるようですが、それでも堂々たる社殿であった様子がうかがえます。
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千葉県神社庁の「千葉県神社名鑑」には、「境内坪数4万坪、氏子2万戸」とあります。
香取郡という神郡を持つ「香取神宮」は、財政的にも恵まれた存在でしたが、中世以降は
地方豪族に度々神域を侵され、寛元年代(1243~1246)には神領が十余村にまで
狭められてしまいました。
徳川の時代になって天正十九年(1591年)に一千石の朱印地が与えられて、隆盛を
取り戻し、慶長、元禄の大造営とつながって行きます。
この間の状況を、大正10年刊行の「香取郡誌」からひろうと、
「然れども武門の權威益盛んなるに從ひ神領往々其の侵略を受け或は社田の租税を
抑留するに至る 朝廷より鎌倉府をして之を正さしもるも舊に復せざるものあり」
「天正十八年五月豐臣秀吉浅野長政木村重茲の二人をして香取十二ヶ村大戸六ヶ村
云云の制札を建て社地を犯すこと勿らしむ」
「十九年十一月徳川家康香取郷の地千石を寄附し神領と爲し後世違ふ勿らしむ」
(P344~345)
とあります。
「鹿島新宮」と「桜大刀自神社」の間を北に向かって抜けて行く道があります。



「桜馬場」に出て行く所に置かれた手水盤。
元禄十三年(1700年)と刻まれていますから、本殿や拝殿、楼門が造営された時のもの
だと思われます。
あまり人の通らない道の片隅に置いておくのは、惜しいと思える歴史的な手水鉢です。

「桜馬場」に出た所に茶店が一軒あり、その横に「下総国式内社の碑」があります。
「延喜式」記載の下総国の式内社十一社と「三代実録」の子松神社の所在地を、清宮秀堅
(1809~1879)が調査して碑としたもので、文久元年(1861年)の紀年銘があります。
「桜馬場」はかつて流鏑馬式が行われた所で、「香取神宮小史」には、
「神苑北側にある。櫻樹が多く、もと六月五日流鏑馬式を行った所。この地は眺望もよく、
香取ヶ浦を見下し、對岸に潮来、牛堀の町々連り、遥か浪逆の浦、鹿島山等を望み、
西方は筑波嶺、蘆穂、加波の連山を見渡すことも出来る。」
と書かれています。
今はいくつかの記念碑と、鹿園があるだけです。



いずれも明治時代のもので、「武徳崇千古 威霊震萬年」とか、「祈征清 軍大勝 陸海軍
人健康」といった勇ましい文字が刻まれています。



一番奥に「鹿園」があります。
鹿は神の使いとして神社では大切にされますが、この場所は見通しが悪く、参拝客が
訪れることはほとんど無さそうです。
私が近づくと一斉に駆け寄ってきました。
餌は餌箱にたっぷり入っていましたので、淋しいのか、退屈なのか・・・。
先ほどの手水盤の所まで戻って、今度は右手に進みます。

木々の枝に覆われて薄暗い場所に「六所神社(ろくしょじんじゃ)」があります。
木札にはご祭神として「須佐之男命」「大国主命」「岐神(ふなどのかみ)」「雷神二座」と
書かれています。
岐神とは道の分岐点などに祀られる神で、悪霊の侵入を防ぎ、旅人を守ります。
「道祖神」とも言われます。
六所ならば、もうお一人神様が足りませんが、「香取神宮小史」には、上記のご祭神の後に、
「或伝、靇雷神六座」 と記しています。
ここには「花薗神社」が合祀されています。
こちらのご祭神は「靇神(おかみのかみ)」で、水神のようです。

さらに進むと、広場の奥に木造二階建ての「香雲閣」が現れます。
「神苑東北隅の一樓を香雲閣と云ふ。明治二十九年(1896)、有志の醵出に依って
建設す。閣に登って眺瞰すれば、常總二州の勝景、一目の中に快然たる風致は羽化
登仙の感がある。大正天皇東宮殿下の御時、神宮御蔘拜の節、當閣に御休憩遊ばさ
れた。其の後、各宮殿下の當神宮御蔘拜の折の休憩所に充てられた。平成十二年
(2002)二月十五日登録有形文化財に指定。」 (「香取神宮小史」 P55)
今は全く使われていないようで、障子が破れるなど内部は少々荒れています。

東日本大震災で損傷した社号標がここにありました。
高さが半分ほどになっています。
昭和34年と記されています。


社号標の近くに2基の「髪塚」が立っています。
戦地に赴いた兵士の武運長久を祈って、女性が髪を切ってここに埋めたのだそうです。
この前に立つと複雑な思いが交差します。

辺りは深い森です。
静かな午後の陽ざしの中で、鹿の鳴く声が響いています。
【 番 外 編 】

何回目かの取材中に、偶然テレビドラマの撮影にぶつかりました。
境内の拝殿前に大勢のスタッフや、エキストラ(出演希望の野次馬参拝客?)がいます。



興味が無いわけではありませんが、元来へそ曲がりな性格で、ちょっと覗いただけで
取材を続けるためにその場を離れました。
後日放映された「香取神宮」のシーンは、さすが鮮明な画面でした。
(スタッフの呼びかけに応じて、(参拝客A)として大勢のエキストラに紛れ、そっとVサイン
でもしてみたかった~ などとは思いませんでしたョ、ハイ。)
(次回で一通りの紹介が終わります)