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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

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朱の楼門に黒の神殿~下総一の宮「香取神宮」(3)
「香取神宮」の3回目です。
「総門」をくぐって、「楼門」の前に来ています。

香取神宮ー111

楼門の右側に立つ「黄門桜」。
「木母杉」と名付けた同じ貞享元年(1684年)に、水戸光圀公の手植えと伝えられる桜です。
ただし、この桜は成長したひこばえのようです。(3月3日撮影)

香取神宮ー145

3月25日の時点ではまだ蕾ですが、この記事のアップ時には満開になっているでしょう。


香取神宮ー138

黄門桜の斜め前の目立たぬ場所に末社の「諏訪神社」があります。
ご祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で、軍神として知られています。
鹿島神宮のご祭神である「武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)」と戦い、敗れて服従
した神で、香取神宮のご祭神である経津主大神とも因縁浅からぬ神です。
昔は境内東方の森の中で、前回に紹介した「天降神社」と並んで建っていました。


香取神宮ー112

「楼門」は壁や柱が丹塗りで、鮮やかな朱色が映える建造物です。
丹塗りは、原料が金属であることから腐食しにくく、虫害からも守れるという理由の他、
朱色が不変を表すという宗教的な意味もあり、宗教建築に多く用いられています。
元禄十三年(1700年)に本殿と同時に造営されました。

楼門内には「左大臣・右大臣」の随身像が外に向かって置かれ、内側には木彫りながら
重量感のある狛犬が置かれています。

香取神宮ー113
香取神宮ー114  (左像)  藤原鎌足 
香取神宮ー115  (右像)  武内宿禰
香取神宮ー73
香取神宮ー74
香取神宮ー75

元禄十三年(1700年)に造営され、昭和15年に大修築が行われたこの楼門は、国の
重要文化財に指定されています。
楼上の掲額は東郷平八郎の筆になるものです。


香取神宮ー146

「楼門」をくぐると、左手に回廊が続いています。
柱や壁は鮮やかな朱色です。


香取神宮ー149

ここで、あらためてご祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)について調べておきましょう。

経津主神は日本の神話に登場する神です。
「日本書紀」にのみ現れ、「古事記」には現れない神で、 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、
または伊波比主神(いわいぬしのかみ)とも呼ばれます。
少し長くなりますが、経津主神について香取神宮のホームページから引用します。

「はるか昔、天照大神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国を治めようとしましたが、
荒ぶる神々が争い、乱れていました。
大御神は八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神である
ということで遣わされましたが、出雲国の大国主神(おおくにぬ しのかみ)に従ってしまった
ので、次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされました。 天稚彦もまた忠誠の心なく、
顯國玉神(うつしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、自ずから国を
乗っ取ろうとしましたが、亡くなってしまいました。
このようなことが二度つづいたので、大御神が八百万神に慎重に相談させると、神々が
口を揃えて、経津主神こそふさわしいと申し上げました。そこへ武甕槌大神(たけみかづち
のかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出られたので、 共に出雲に派遣されることになりました。
経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつか
のつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く
異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本
の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。」


これで経津主神が武甕槌神と共に「武神」とされる理由が分かりましたが、では、香取、
鹿島というごく近い距離の内に、二社が祀られることになった理由は何なのでしょうか?

経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とは、利根川を挟むようにして建って
いますが、これは両宮のあるこの地方が、大和朝廷の蝦夷地征伐の最前線であったことが
大きく影響していると考えられます。
私たちは蝦夷地というと北海道を思い浮かべますが、当時の蝦夷地とは、関東から東北に
かけての一帯を指していたようで、日本武尊の東征の物語などもそのことを裏付けています。

「『日本書紀』には、卷7景行天皇40年10月の条に、「爰に日本武尊、即ち上総より転じて
陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を
横切って蝦夷の境に至る。」とあり、倭武の天皇とは日本武尊のこととされている。」

(ウィキペディア 日本武尊より)

古代のこの地域には、「香取海」という霞ヶ浦から手賀沼、印旛沼がつながった広大な内海
が広がっていて、大和朝廷の蝦夷地攻略のためには、戦略的に見ても現在の香取・鹿島
両宮の位置する場所が非常に重要な拠点でした。
その拠点に「軍神」を祀る香取・鹿島の両宮を配することによって、その神威を背景にして
大和朝廷の勢力の北上を狙ったと考えられます。


香取神宮ー36

藤原氏は、氏社として創建した奈良の春日大社に、鹿島神を第一殿、香取神を第二殿に
勧請して、第三殿に祀られた藤原氏の氏神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)
より上位に位置づけました。
また、源頼朝を始め足利、徳川将軍家からも強い崇敬を寄せられるなど、武神を祀る両宮
は武家からの崇敬を集めてきました。

「佐原市史」には、武家とのつながりを示す一例として、文永の役、弘安の役に関連する
次のような記述があります。
「公武一体の戦の成果とともに神仏への祈祷が強く作用したと信じられることから、全国の
寺社に於て異国降伏国土安泰の祈祷がとり行われた。香取神宮にあっては、現在牧野の
観福寺に所蔵されている四体の銅造仏像の中、釈迦・十一面観音の二像がこれに関係
している(観福寺の四体の仏像はもと香取神宮にあった)。すなわち、その光背の銘文に、
右志者為天長地久當社繁昌異國降伏心願成就造立如件 弘安五年午壬八月一日
とあることから、これは弘安の役の後、異国降伏祈願の報賽として、わが国屈指の大社で
あり、軍神の経津主命をまつる香取神宮に奉納されるものであることがわかるのである。」

(P 101)

時代劇の剣道場のシーンでは、決まって「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二幅の
掛軸が出てきますが、武神としての崇敬が広く武家に浸透していたことを表しています。


現在の本殿、拝殿、楼門等の主な社殿は元禄十三年(1700年)に、五代将軍・徳川綱吉の
命により造営されました。
楼門をくぐって正面に見える拝殿は昭和11年から15年にかけて行われた大修築時に造営
されました(その前にあった拝殿は現在祈祷殿になっています)。
檜皮葺きで正面に千鳥破風が見えます。
旧拝殿(現祈祷殿)は楼門と同じ丹塗でしたが、新たな造営では柚部に黒漆塗を施し、組物・
蟇股は極彩色に仕上げられました。


香取神宮ー50
香取神宮ー123

本殿と幣殿、拝殿が一体となった造りで、昭和の大修築以前からこの「権現造」です。
「本殿は、元禄13年(1700年)の造営。三間社流造、檜皮葺で、南面している。この形式の
社殿としては最大級の規模である。前面の庇(ひさし)部分を室内に取り込んでおり、背面
にも短い庇を有している。」
「壁や柱は黒漆塗で、黒を基調とした特徴的な外観である。屋根は現在檜皮葺であるが、
かつては柿葺であったとされる。」
 (ウィキペディア 香取神宮)

確かに、この社殿を初めてみた人は、その黒さに少々驚くようです。
神社の社殿の色は朱色という先入観念があるためでしょう。
鰹木は9本、千木は垂直切りの本殿は、国の重要文化財に指定されています。


香取神宮ー163

金色や極彩色の装飾が、黒を基調とする社殿に良く映えています。
拝殿・本殿の見事な装飾を、時計回りに見て行きましょう。

      拝殿正面     香取神宮ー147
香取神宮ー148
      本殿西面     香取神宮ー150
香取神宮ー151
      本殿北面     香取神宮ー152
香取神宮ー121
      本殿東面     香取神宮ー153
香取神宮ー154


香取神宮ー38

本殿の向かって左手にある「神饌殿」。
神事の際に供える供物を納めておく所です。

香取神宮ー39

「神饌殿」の横には「練習艦かとり」の錨が置かれています。
「かとり」は昭和42年の建造され、平成10年に除籍となるまで、地球と月の間を2往復半
する距離を航海しました。
江田島で解体後、この錨が命名の由来となった「香取神宮」に奉献されることになったのです。


香取神宮ー120

「神饌殿」から奥に進むと「三本杉」があります。

「後冷泉天皇御宇源頼義公が参拝し「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願成就せば
此の杉自ら三岐に別れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に別れた 以来これを三本杉
と云う」
  説明板にはこう書かれています。
三つに別れてから千年も経っているのですから、樹齢は相当なものですね。
残念ながら三本の内真ん中の杉は枯れてしまっています。


まだ境内の半分も見ていませんが、ここから先は次回に譲ります。



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

香取市の寺社 | 08:47:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
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