江戸時代以前には「伊勢神宮」、「鹿島神宮」と、この「香取神宮」の三社のみが「神宮」と
称されていた有名な大神社です。
(見るべきものが非常に多いので、数回に分けてご紹介する予定です。)

社伝では初代神武天皇十八年(紀元前642年?)の創建と伝えられている「香取神宮」。
ご祭神は「経律主大神(ふつぬしのおおかみ)」。
古来より下総国の一宮として、広く人々の崇敬を集めてきました。
「全国でも有数の古社として知られ、古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏
から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代
の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。」
(香取神宮ホームページより)
神話の時代から続く「香取神宮」ですが、明確にその存在が記録されている最初のものは、
元明天皇の命により和銅六年(713年)に編さんされ、養老五年(721年)に成立した常陸国
の地誌、「常陸国風土記」に、香取神宮から分祀した社の記載があることです。
したがって、少なくともこれ以前に「香取神宮」は存在したことになります。
旧佐原市街(現香取市)を香取神宮に向けて県道55号線を進むと、県道56号線との交差点
に巨大なコンクリート製の明神鳥居が目に入ります。


これが「香取神宮」の「一の鳥居」です。
島木に皇室の十六花弁菊紋を3つ付けた堂々たる鳥居です。
これを一の鳥居とせず、津宮にある「浜鳥居」を「一の鳥居」とする解説が多く見られます。
確かに、昔は浜鳥居を一の鳥居とする表参道が、本宮の楼門横に続いていたのですが、
現在はこちらを一の鳥居として新たな表参道が約1.6キロ続いています。
(「浜鳥居」は次回に訪ねます)


表参道と言うものの、「一の鳥居」をくぐっても何の変哲もない生活道路が続きます。
成田山のそれとは違い、茶店や土産物屋の並ぶ景色はわずか百数十メートル。
すぐ先に朱塗りの「二の鳥居」が見えています。

「二の鳥居」。
こちらも一の鳥居と同様の神明鳥居です。
脇に建つ社号標は平成23年11月の建立、と言うより再建です。
平成23年3月の東日本大震災で損傷を受け、8ヶ月後に再建されました。
「香取神宮」の文字は、日露戦争でバルチック艦隊を破った「軍神・東郷平八郎」のものです。

昭和5年の石灯篭。

鳥居をくぐると砂利を敷き詰めた広い参道と、両脇に林立する石灯篭が奥へと続いています。

参道の左手に山の上に向かう道が見えます。
「要石道」と刻まれた石柱が立ち、説明板があります。
奥 宮 (おくのみや)
当宮の旧参道脇に御鎮座。
御本殿に経津主大神の和御魂を御祀りするのに対し、奥宮は荒御魂を御祀りする。
これは大神の大いなる御働きのひとつで「心願成就」に霊験あらたかである。
現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものである。
要 石 (かなめいし)
古伝によればその昔、香取・鹿島の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国
を平定し、香取ヶ浦付近に至った。
しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
これは地中に大きな鯰魚が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。
大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。
当宮は凸形、鹿島は凹形で地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。
貞享元年(一六六四)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見る
ことが出来なかったと伝わる。


少し登ると「護国神社」の社号標(昭和46年)と鳥居があり、趣のある古道が続いています。

上り坂の途中にちょっとした平地があり、鹿島神宮でよく見かける鹿の角を彫った手水鉢が
置かれています。
寛文十年(1670年)と記してあります。



この「護国神社」は昭和21年の建立で、明治以降の国難に殉じた香取郡出身の御霊を
ご祭神としています。
思ったより広い境内には、他に何もありませんが、ここで春秋2回の例祭が行われます。

漬物石のような(失礼)要石


「要石」は「護国神社」の左を入った突き当たりにあります。
石柵の中には小銭がたくさん投げ入れられていました。
説明板にあった通り、凸型の頭を出しています。
以前訪れた鹿島神宮の要石は凹型(と言うより平面)でした。
黄門様ならずとも、ちょっと根元を掘ってみたくなりますね。
向かい側にある小さな祠は末社の「押手神社」です。
ご祭神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」で、伏見稲荷大社の主祭神でもあります。
下にキツネが見えるのも、そうしたつながりからですね。
さて、「奥宮」はどこなのでしょう?
それらしき建物は見当たりません。

あちこち探し回ってやっと見つけました。
要石の先を左に折れて、一般道をさらに左に50メートルほど歩くと「奥宮」はありました。
社号標は平成24年のものです。



社号標の左手前に「天真正伝神道流始祖 飯篠長威斎墓」があります。
「飯篠長威斎」は旧飯笹村(現多古町)出身で、室町時代に形成された我国最古の権威ある
流儀の始祖とされています。
この流儀を修めた人物の中には、塚原卜伝、雲林院 松軒を始め、竹中半兵衛等、多くの
歴史上の人物がいますが、リストの最後に「山崎丞」の名前を見つけました。
少々脱線しますが、「山崎丞(やまざきすすむ)」は摂津出身の新撰組隊士で、その卓越した
能力を近藤勇に認められ、諸士調役兼監察役を任せられていました。
池田屋騒動では浪士達の密会を探り当てたのがこの人物です。
鳥羽伏見の戦いで負傷、江戸に戻る富士山丸の船上で死亡し、紀州沖で水葬されました。
個人的に大好きな新撰組の中でも、裏方に徹して黙々と仕事をこなす、一番好きな人物です。
長威斎は飯篠家直という名前でしたが、60歳になって入道し長威斎を名乗りました。
多古町飯笹の地福寺(長威斎が創建したと伝えられる)にも墓があるとの記録もあります。

「奥宮」のご祭神は経津主神の荒御魂(あらみたま)です。
「本宮」のご祭神は経津主神の和御魂(にぎみたま)ですが、この二者の関係はどういう
ものなのでしょうか?
これは神道の概念で、神の霊魂は、荒御魂と和御魂の二面を持つとされています。
荒御魂は荒ぶる魂を意味し、災害や流行り病などを起こして人々の心を荒廃させ、和御魂
は陽の光や雨などの恵みをもたらします。
「神の祟り」は荒御魂の表れであり、「神のご加護」は和御魂の表れとされます。
この二つは同じ神でありながらその相反する性格から、別々に祀られることも多くあります。
人々は荒御魂の怒りを鎮め、荒御魂を和御魂に変えようとして、いろいろな供物を捧げたり、
儀式や祭を行ってきたのです。
また、荒御魂は荒々しいだけでなく、破壊の中から新しいものを生み出す存在でもあります。


高い板塀に囲まれて中を良く見ることはできません。
千木が水平切りで鰹木が4本ということはご祭神が女神であることを表しますが、経津主神
は男神のはずなので疑問が残ります。
資料を探しましたが、この件に関する記述は見つかりませんでした。
千木・鰹木には例外もあるようなので、時間をかけて調べようと思います。

質素なお社ですが、現在の社殿が昭和48年の伊勢神宮遷宮の際の古材を使用して建て
られたこともあるのでしょう、周りの深い森の空気と共に厳かな雰囲気が漂ってきます。

飯篠長威斎の墓と道路を挟んで向かいあう、小高い丘の上に「祖霊社」があります。




金剛宝寺の名残りでしょうか、如意輪観音と種字のようなものがうっすらと見える石板が
取り残されたようにポツンと置かれています。

椿の枝が茂り、篠竹が伸び放題で社殿には近づけません。
現在は香取神宮の末社リストにも並んでいない忘れられたお社ですが、神仏混淆の時代
にはここに香取神宮に属し、「十一面観音菩薩」を御本尊とする「金剛宝寺」がありました。
明治に入り、神仏分離令によって廃寺となりましたが、摂末社にも残されていないとは
どういう経緯があったのでしょうか?

風雪に晒されて、紀年銘も、お顔もはっきりしませんが、歴史に翻弄された日々を静かに思い
起こされているようなポーズです。
どの資料を見ても、香取神宮の摂末社の中には「祖霊社」の名前はありません。
歴史ある大神社の「香取神宮」を歩き回れば、先ほどの「奥宮」の千木・鰹木を始め、この
「祖霊社」など、これからも数々の疑問が湧いてくるのでしょうが、いずれ突然謎が解ける
ことを期待して、参道に戻ることにします。

参道に戻ってきました。
本宮への道は石灯籠の林です。
両側はスギ、スダジイ、シラカシ、シロタモなどの深い森です。
遠くから眺めると、神社のある丘と森が亀の甲羅のように見えることから、地元では
ここを「亀甲山」と呼んでいます。
次回は「浜鳥居」に寄り道をしてから、参道を進んで、「三の鳥居」「総門」へと進みます。
コメント、ありがとうございます。
要石伝説は意外と多くの場所にあるようですね。
おっしゃる通り、最近では東日本大震災で社号標が損傷し、建て替えられた以外は
全く変わらない「香取神宮」です。
次回も楽しみにしております。
お久しぶりです。
コメントをありがとうございます。
さすがに大神宮で、何回も取材に通いました。
4~5回の連載になりそうです。