
この「八幡神社」は天暦八年(954年)の勧請と伝えられています。
ご祭神は「誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇」です。

「奉納御寶前」と彫られた手水盤は、天明八年(1788年)と記されています。


シンプルな神明鳥居の脇に「郷社 八幡神社」と記された石柱が立っています。
「郷社」とは、それまでの延喜式に代わるものとして明治になってから新たに制定された、
近代社格制度による社格の一つで、無格社、村社より上の格を持つ、成田市内でも
数少ない神社です。
新制度では、官国幣社218社、府社・県社・藩社1148社、郷社3633社、村社44934社、
その下に無格社約65万社が並ぶ形になっています。(ウィキペディア 社格の項)

「甲子需講中」と刻まれたこの石碑は、嘉永六年(1853年)のものです。
「甲子講」とは、干支で甲子(きのえね)は60日に一度回ってきますが、この日に人々が
集まって大黒様に五穀豊穣を願うものです。
庚申塔はどこにでも見られるものですが、甲子塔はあまり見かけません。
因みに、十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸で、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・
午・未・申・酉・戌・亥)と組み合わされて干支(えと)となります。
甲子は十干の一番最初に来ることから、縁起が良いとされています。

「成田の地名と歴史」(平成23年成田市発行)には次のような記述があります。
「建仁年間(1201~04)に千葉一族の和泉城主の大須賀加賀守が武運長久を祈願し、
その霊験があったことから社殿を建立したという。」 (P358)
建立したとされる天暦年間から250年近く経っていますので、これは再建ということでしょう。
素朴な神額です




壁面に掛けられた奉納額は色あせてはっきりとは見えませんが、何やら僧侶のような人物が
お祈りをしている姿のようです。
地元の民話でも描いているのでしょうか?

大きな美しい屋根が特徴の流れ造りの本殿は、宝永六年(1709年)に再建されました。



「成田市史・近代編史料集一」(昭和47年 成田市史編さん委員会)の芦田村町村誌料の
項に、「八幡神社」はこう記載されています。(P275~276)
八幡神社
所在 字臺 坪數 貮百七拾三坪
祭神 應神天皇
社格 明治五年八幡神社ト稱シ郷社ニ列セラル。
創建年月日 不詳
祭日 舊暦八月十五日ヲ用ユ。
氏子 芦田村外十貮ヶ村郷社
末社 一座 三峯神社并遥拝所
祠宮澤田總右衛門
雑項 本社ハ南向六尺四面、創建不詳。拝殿ハ破損ニ付
明治元年中四間ニ三間建立玉垣等アリ。千葉縣大
書記官岩佐為春書額面其他額面多数之アリ。境内
古松数十本アリ。祭禮ハ陰暦正月十五日、八月十五
日、競馬其多参詣人群集セリ。其他御札守等ヲ授ク。
これにより、拝殿は明治元年に再建されたことが分かります。

上記の記述にある競馬とは、祭礼の時に行われたもので、「成田の歴史散歩」(小倉 博著)に
「神社の前の道はまっすぐで、「八幡様の馬場」と称していた。もとは一月十五日の大祭に
なるとこの馬場で草競馬が行なわれ、多数の見物人で賑わったというが、東和泉城時代の
軍馬訓練の名残の可能性もある。」 (242)と書かれています。

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本殿の周りにはいくつかの小さなお社や祠が建っていますが、(知識のある方が見たら
すぐに分かるのでしょうが)残念ながら私にはどこかに名前が書かれていなければ
分かりません。

本殿の右側、林の中に数基の庚申塔(こうしんとう)が見えます。


風雪に晒されて、お顔がはっきりしない青面金剛像が多い中、この金剛様のお顔の憤怒の
表情ははっきり分かります。
天保二年(1831年)と記されています。

こちらは文政二年(1819年)のもので、「青面金剛王」と刻まれています。


こちらの金剛様は、六臂の内の二臂が胸の前で合掌しています。
庚申は「かのえさる」の日で、前述した甲子と同じく60日に一度巡ってきます。
人間の頭と腹と足には上尸・中尸・下尸という三尸(さんし)の虫が棲んでいて、日頃から
その人の悪事を監視しており、庚申の日に眠った人の体内から抜け出し、天に昇って天帝に
報告すると信じられてきました。
このことから、庚申の夜には三尸虫が天に昇れないように、近隣の人たちが集まって酒盛り
などをして夜明かしすることを庚申待ちと言います。
庚申待ちを3年間・18回続けたことを祈念して建立されるのが庚申塔(塚)です。
庚申の本尊は仏教では「青面金剛」または「帝釈天」であり、神道では「猿田彦神」となります。
ここは神社の境内ですが、神社の境内に仏教の石仏や板碑があったり、お寺の境内に小さな
神社が同居していたりすることは良くあることで、神仏習合が日本人のおおらかな宗教観に
根差すものである以上、明治政府による神仏分離令が出されて以降も、何かにつけて神様・
仏様とすがる心は変わることがありません。

金剛像のさらに奥にある3基の祠には、やはり何の説明もありません。
前面を木板で塞がれた姿は寂しげに見えます。
境内には多くの記念碑がありますが、それらを見ると、この神社が地域生活の中心に
あったことが良く分かります。

「道路改修記念碑」(昭和12年)


「貯水池新設記念碑」(昭和10年)



境内からは少し離れた場所にある、二対の大正天皇の即位記念碑。
この記念碑の周りは即位記念林になっています。


1060年の歴史を有する「八幡神社」。
今、飛行機の轟音の下で、芦田の「八幡神社」は新たな時を刻んでいます。

※ 芦田の「八幡神社」 成田市芦田1468
成田市コミュニティバス大室循環コース(赤荻経由)
芦田入口下車 徒歩約5分 駐車スペース有