
「大須賀大神」は弘仁元年(810年)の勧請と伝えられています。
1200年の歴史を持っているこの神社は、当初は近くの別の場所(神代)にありましたが、
火災にあってこの場所に移転してきました。

手水盤には享保十四年(1729年)と刻まれていました。

ご祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
春日権現と呼ばれることもある祝詞の神様で、出世の神様とされています。
天照大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(くつぬしのみこと)を合祀していて、
郷社の格を持つ近隣村社の総鎮守です。
「境内はかつて祭礼ともなると1万を超える人が訪れたという広さで、いたるところに
合祀された祠がある。」(「大栄町史・民俗編」 大栄町史編さん委員会編 P155)

鳥居の下に昭和12年の「拝殿鳥居間参道敷石」と記された寄進の碑が建っています。

足元に子犬(?)がいます

参道の左手にはずらりと石碑が並んでいます。

「護国碑」は昭和27年に建てられ、徳富蘇峰の書になります。
「蘇峰九十叟」と記されていますが、昭和27年には蘇峰はちょうど90歳になっていました。
叟とは翁という意味でしょう。
蘇峰は高名な思想家ですが、自由民権から富国強兵までの振幅の激しい思想家でした。
「不如帰」で知られる徳富蘆花は実弟になります。

「忠魂碑」は海軍大将・東郷平八郎の書です。
日清・日露両役戦没者の慰霊のために、明治39年に建てられました。
東郷平八郎(1848~1934)は日露戦争での日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を
撃破したことで世界中の海軍から尊敬を集めた軍人で、陸軍の乃木希典大将とともに
軍神として崇められました。
東京・渋谷、福岡・福津、埼玉・飯能に「東郷神社」があります。

「凱旋記念碑」も東郷平八郎の書で、明治39年に建てられました。

「戦役記念碑」は陸軍大将・田中義一の書で、大正11年の建立です。
田中義一(1864~1929)は軍を退役後、政界に進み、第26代内閣総理大臣を務めた
人物で、政治家としての評価は分かれますが、気さくな人柄で知られています。
戦後の内閣総理大臣・吉田茂は、この田中義一を師と仰いでいました。

「招魂碑」は昭和28年の建立で、宇垣一成謹書と記されています。
裏面に日露戦役、日支事変、太平洋戦争の戦没者を慰霊するためと書いています。
宇垣一成(1868~1956)は陸軍大将で、陸軍大臣、朝鮮総督などを歴任しました。
軍部出身ながら当時の軍部の独走に批判的で、何度も軍部に対する抑止力を期待されて
首相に推されましたが、いずれも軍部強硬派に阻まれ、ついに首相にはなれませんでした。


本殿の千木は垂直切り、鰹木は5本で、ご祭神が男神であることを表しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


拝殿の装飾はさほど多くはありませんが、見事な彩色に彩られています。


本殿裏の天満宮と三峯神社。

拝殿の右手にある疱瘡神、八坂神社、金毘羅宮。

比較的新しい祠が三つ並んだ裏側に、古い祠が置かれています。
金毘羅宮は寛政5年(1793年)と読めます。



裏山は鬱蒼とした林です。
その中にポツンと白山神社が建っています。

境内の一角に能舞台があります。
ここで民俗芸能の「伊能歌舞伎」が上演されます。
「伊能歌舞伎」は、元禄十年(1697年)に始まったと言われています。
昭和40年を最後に上演されなくなっていましたが、平成に入って復活の気運が高まり、
「伊能歌舞伎保存会」が設立されて平成11年に復活し、今では近隣の各地で公演を行う
までになっています。

地芝居ポータル提供「伊能歌舞伎」⇒

FEEL成田 伊能歌舞伎 2013.4.2 ⇒
昭和40年以降上演が途絶えたのは、火災によって衣装が焼失したり、役者は若衆
(16~25歳までの男子)のみがなれるという決まりが、少子化の影響もあって役者
不足を招き、また時代と共に娯楽が多様化するなかで、上演が難しくなったためです。
一度途絶えた民俗芸能を復活させるには、大変な苦労があったことでしょう。
現在は市の指定無形文化財となっています。


1200年の歴史がある「大須賀大神」。
その歴史を記すものはほとんど残っていません。
しかし、社殿をはじめ裏山の深い森や、境内の静かな佇まいは、時の重みを
感じさせるに十分な雰囲気です。

※ 「大須賀大神」 成田市伊能345
京成成田駅中央口より千葉交通バス 吉岡経由佐原行き
大栄郵便局下車 徒歩5分