
この「熊野大神」は「桜田大権現」とも呼ばれ、創建年代は不詳ですが、千年以上前である
と伝えられています。
熊野三山の「速玉男命」(ハヤタマオノミコト)、「伊弉冉尊」(イザナミノミコト)、「事解男命」
(コトワケオノミコト)を勧請してご祭神としています。
「誉田別命」(ホンダワケノミコト)と「瀬織津姫命」(セオリツヒメノミコト)も合祀されています。
「治承年間(1177~81)に石橋山の戦いで敗れた源頼朝がこの地に来たとき、同社に
武運繁栄を祈願し源家の守護神である誉田別命を合祀したと伝える。また瀬織津姫命は
大須賀川の守護神である。」 (「成田の地名と歴史 P247)


鳥居は国道51号線の歩道ギリギリに建っています。
正面から見るには道の反対側に廻らなければなりません。

この手水盤には正徳二年(1712年)と刻まれています。

「大須賀村大字櫻田字權現脇に在り域内二百九坪速玉男命伊弉册尊事解男命を祀り瀬織津
姫命譽田別命を相殿とす社傳に曰ふ創建詳かならず治承中源頼朝武運繁榮を本社に祈願し
神楽を神前に奏す此時を以て譽田別命を勸請すと瀬織津姫は本社の大須賀川水源に屬する
を以て守護神と為せしものなり域内に圍丈餘の巨松樹あり社記に頼朝馬鞍を掛けし古事を傳
ふも明治三十五年大風の為めに折損せり社前耕圃中に一塚あり神樂塚と稱す」
「千葉縣香取郡誌」にはこう記述されています。
相殿の「譽田別命」とは応神天皇のことで、「瀬織津姫」は祓戸四神の一柱で災厄抜除の神です。

境内を区切るフェンスの外にポツンと立つ、延享二年(1745)の祠。
うっすらと「疱瘡神」の文字が見えます。
今は公園の一角になっていますが、もともとは神社の境内であった場所です。

境内の左手、国道の脇に崩れかけた祠が三基。
右の祠には「寛政」の元号が見えます。



拝殿は開放的な造りです。
この拝殿では、晩秋になるとこんな風景が見られます。



拝殿の床一面に枯葉が積み上げられています。
これは毎年12月の2回目の「卯」の日の前日に行われる夜祭りの準備のためです。
境内に左右二つの枯葉の山を作り、火をつけた焚き火の間を子供たちが駆け抜けます。
この祭りは「桜田の大火(おおび)」と呼ばれ、二つの焚き火の間をくぐった子供は一年間風邪
をひかないと言われています。
以前は神社の拝殿前に大きな山を二つ、神社前の道の九十九か所に小山を作って火を焚き
ましたが、危険だと言うことで近年は境内の二つの大山のみとなっています。
「大栄町史 史料編Ⅶ」に収録の「桜田村熊野大神由来書」には、この祭礼について、
「且ハ毒蛇河童之災害ヲ除キ候趣之祭事」 との記述しています。
この神社の近くに栗山川の源流がありますが、昔そこに河童が棲んでいて子供にいろいろ
悪さをするため、火を焚いて河童除けをしたのが始まりだとされ、桜田地区では祭りの間は
魚を口にしない風習が残っています。

「写真提供:ぐるり房総」
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「大栄町史 民俗編」に「権現様と河童」という話が載っています。
少々長くなりますが、この行事のいわれが良く分かりますので引用します。
「昔、桜田にある農夫がいて、農業のかたわらに栗山川などで魚を捕っていた。栗山川は
桜田の熊野神社付近を水源として、現在の栗源町・多古町を通って九十九里浜に注ぐ川
で、下流部は下総国と上総国の国境をなしていた。ある日、男はいつものように小舟に乗
って川を下り、岩部(現栗源町)の近くで網を仕掛け帰ろうとしたとき、急に辺りが暗くなり
大粒の雨が降り出した。家に戻った男は仕掛けた網のことが心配となり、夜の明けないうち
に家を出て小舟で川を下り岩部まで行ってみると、やはり網は流されていたのである。その
まま網を探しながら九十九里浜近くまで下ると、杭に引っかかっているのを見つけた。そこで
網を揚げようとしたのだが、どうしたことか重くて揚がらないのである。さらに男が力を込めて
引き揚げると、網を食いちぎっている河童がいっしょに顔を出したのであった。男があわてて
持っていた棹で河童の頭をなぐると、河童がかみついてきたので、今度は頭の皿を目がけて
けとばしたのであった。すると河童は目を回して、川の中に沈んでいった。」
「 その年の夏、栗山川で泳いだり釣りをしていた桜田の子どもが、河童に川へ引き込まれ
水死する事件が多発した。村は大騒ぎとなり、村人は熊野権現(神社)に集まって権現様に
子どもを守る願いを掛けた。すると権現様は「あの河童は頭の皿が乾くと死んでしまうので、
火が大嫌いだ。だから『子どもを川に引き込むと一〇〇か所に火を焚き川原を焼きはらうぞ』
と言って九九か所に火をたき、『もうひとつたくぞ』と言えば河童も悪さをしなくなろう」と告げた
のである。それから桜田では毎年一二月の卯の日に、オオビといって熊野権現の境内で子
どもが九十九か所にたき火をするようになったという。」 (P360)
いつまでも伝えて欲しい、素朴で楽しいお祭りです。

千葉県神社名鑑には「熊野大神」について以下にように記しています。
「祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)
伊弉册尊(いざなみのみこと)
事解男神(ことさかのおのかみ)
本殿・亜鉛板葺神明造四坪、拝殿・亜鉛板葺入母屋造四坪
境内坪数二一〇坪 氏子四四戸
由緒沿革 地区の有志が相計り社殿を建立、元禄元年御祭神を勧請奉斎」
元禄元年(1688)に御祭神を勧請したとすると、頼朝伝説との整合がとれません。
伝説は所詮伝説だとしても、頼朝が平家討伐の前に香取神宮に詣でて、戦勝祈願をした帰路
にこの神社に立ち寄ったという話には捨て難い魅力があります。
「大栄町史 通史編中巻」には、“頼朝が当社に祈願したとあるのは伝承の世界のこと”と断じ
ていますが、個人的には、頼朝伝説を採り、元禄元年の勧請とは、何らかの事情で荒廃した
神社を再建したことだと考えたい気がします。


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本殿は極彩色の彫刻で飾られています。
それぞれには何らかの意味のある物語があるのでしょうが、知識の無い私にはただ見事な
彫刻としか言えません。



本殿の裏の少し離れた所に小高い塚があり、頂上部に「三峯山神社」と記した祠があります。
明治十六年(1883)の紀年銘があります。
この塚が前述の「香取郡誌」中の「源頼朝武運繁榮を本社に祈願し神楽を神前に奏す」とある
「神楽塚」なのでしょうか?

本殿裏にはもう一つ小さな塚がありますが、ここには祠も何もありません。


本殿の真裏には、樹周りが6~7メートルもあろうかという杉の大木が聳えています。
何の説明もありませんが、樹齢は数百年にはなると思われます。


鳥居の前の国道は、車の往来が途切れることがありません。


この神社の周辺は昔から香取神宮への奉幣使街道の宿場として栄えました。
「成田村と佐原村(香取市)を結ぶ往還道が村内を通り、宿駅が置かれた。このため近世後期
には村内に居酒屋・草履売り・質物商い・菓子屋などの農間商いがいた。1843(天保14)年
の家数は42軒、人数208人。」 (「成田の地名と歴史」P108)
宿場として賑わっていた街道筋に鎮座する「熊野大神」。
頼朝伝説を信じたい佇まいです。

※ 「熊野大神」(桜田大権現) 成田市桜田946