
(不動尊像 成田山ホームページより)
前回に続いてお不動様の旅の跡を辿ります。
さて、寛朝大僧正は尾垂ヶ浜に上陸後、公津ヶ原まで進み、その地で将門の乱を
鎮めるべく、21日間の祈願を行うことになります。
奇しくも祈願の最終日に将門が藤原秀郷、藤原為憲、平貞盛らに討たれ、さしもの
大乱も治まりました。

祈祷を行う寛朝大僧正(成田山ホームページより)

寛朝大僧正が祈祷を行ったとされる場所は「不動塚」と呼ばれています。
並木町のJR踏切のそばには小さな祠があり、中に石のお不動様が立っています。


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昭和16年にこの像は建てられました。
長い間野ざらしになっていたのでしょうか、風化が進んでいます。

「成田山舊跡 不動塚之碑」と刻まれたこの石碑は明治17年に建てられました。
将門の乱が平定され、寛朝大僧正が都へ帰還する際に、なぜか不動明王像が
全く動かなくなりました。
その時の様子を「新修成田山史」(成田山新勝寺編 P15)にはこう書かれています。
「兵乱既に治まりしを以て、僧正再び尊像を俸持して都に還らんとせしに、重きこと盤石の
如く、僧正未曾有の想をなし、合掌瞑目至心に黙禱せしに明王髣髴として告げ給わく、
『夫れ衆生は無辺にして、我が願も亦尽くることなし。儻し深信機熟の者あらば、処として
応ぜざるなし、我復び京師に還るを願はず、永く此の地に留りて東国の逆徒を鎮押し
渇仰の輩を利益せん』と。」
この話を聞いた天皇は大いに感動し、「新たに勝った」という意味を込めて、「神護新勝寺」の
寺号を与えてこの地に堂宇を建て、不動明王を祀りました。
天慶三年(940年)のことです。
これが成田山の始まりです。
「こうした縁故から、成田山が元禄十四年(1701)に新本堂(現光明堂)を建立したとき、
この不動塚から御本尊の入仏供養の行列が出発したという。」
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博 著 P87)

一応、手水舎になっていますが、手水盤には水は無く、刻まれた文字も読めません。


さして広くもない境内の手水舎の傍に小さな石仏が置かれています。

この祠には「十九夜様」と書かれた木札が掛っています。
十九夜様(十九夜講)とは、安産や子供の健康を祈って、地域の女性が旧暦の
十九日に集まって、如意輪観音に灯明や線香をあげて十九夜念仏を唱える
風習です。

祠の中におられるのは如意輪観音さまと思いきや、右手で如意宝珠ならぬ赤子を抱く
子安観音さまのようです。
やさしく微笑んで赤子を見つめています。

不動塚に並んで小さな金刀比羅神社があります。
地図を見ると不動塚の表示は無く、金刀比羅神社のみが表示されています。
お不動様は間借りしている感じです。

明治45年奉納の手水盤


寛朝大僧正がこの地で将門の乱の平定を祈願し始めた天慶三年一月頃には、平貞盛
と藤原秀郷が4千の兵を集めて将門軍を攻め破りました。
貞盛・秀郷軍が二月半ばに将門の本拠である石井に攻め寄せた時には、将門軍には
わずか4百の兵しか残っていませんでした。
攻め手には藤原為憲も加わって、連合軍と将門の決戦が始まります。
強風が吹き荒れる中、風上に立った将門軍は弓矢による戦いを優位に展開し、圧倒的に
数の優位を持つ連合軍を退けます。
しかし勝ち戦の中、自陣に引き上げる将門は、急に風向きが変わって反撃に転じた連合軍
によって放たれた矢を額に受けて討死してしまいます。
戦場から遠く離れた公津ヶ原では寛朝大僧正が21日間の祈祷を終わるころでした。

成田山発祥の地とか、神護新勝寺に関する説明板は無く、不動塚は踏切脇の道端に
金刀比羅神社と同居しています。
厳密にこの場所であったかどうかはともかく、この場所に由緒あるお寺があったとは
とても思えません。
今では千葉県内のほか、北海道から沖縄まで、成田山の別院、分院、末寺、教会は
71ヶ所に上ります。
これほどの大寺院の発祥の場所としては、寂しい景色です。

お不動様の旅はまだ続きます。
次回は表参道の「なごみの米屋」裏にある、「成田不動尊御遷座旧跡」と、不動が岡にある
「不動尊旧跡」を訪ねます。
※ 不動塚 成田市並木町
京成電鉄公津の杜駅から徒歩約30分
京成成田駅から千葉交通バス八街(やちまた)行き
並木町下車徒歩約5分(1時間に1本程度の運行)
香川県の金比羅山に行ったことがあるのですが、「金毘羅」とはどういう意味なのでしょうか?
残念ながら私は金毘羅様には行ったことがありません。
機会があったら行きたいとは思っているのですが・・・。
釈迦の弟子の一人の劫賓那(こうひんな)が金毘羅となったようです。
どうして海運の神様になったのか、など、私には分からないことが多く、
おいおい調べてみようと思っています。