
(不動尊像 成田山ホームページより)
(お不動様の道を辿る最終回です)
さて、天文年間の前半に神明山に本堂が建立され、お不動様は表参道の米屋裏の
「不動尊御遷座之旧跡」から遷座されました。
「神明山」は現在の成田山の向かい側、信徒会館の裏側に位置する小高い山です。
信徒会館や参道の店舗に視界を遮られ、この山に気付く人はほとんどいません。
今や「忘れられた旧跡」と言えるでしょう。

神明山に登る道は3か所ありますが、いずれも非常に狭く、分かりにくくなっています。
今回は表参道から一本中に入った路地、「神明山通り」から登ってみます。

神明山通りは、表参道が薬師堂の前で大きく曲がる三差路の脇から、右に入る路地と
交わる辺りで、突然消えてしまいます。
これがその場所の景色です。

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トタンやフェンスの廃材で囲まれた小道がありました。
途中に人家は数軒ありますが、人が住んでいる様子はありません。

しばらく進むと下に降りる階段になります。


階段は途中で「電車道」から上ってくる階段と合流して、今度は上りに変わります。
合流点に祠が3つ、明和八年(1771年)と天保五年(1834年)と記されています。
平成23年の大震災で山の一部が崩れ、今も補修工事が続いているようで、
上りの階段にはロープが貼られていました。
人が通らないのでモミジの落葉が積って、赤絨毯のようです。


現在の神明山です。
小さな祠がひとつ、ポツンとあるだけで、フェンスに囲まれ立ち入り禁止になっています。
中に入れないので説明板も読めません。
フェンスにへばりついて何とか読んでみると、この祠は「将軍地蔵」をご本尊とする「地蔵堂」
で、普段は空になっていて11月の御祭礼の時だけここにお祀りされます。
地元では「愛宕様」と呼ばれているそうです。


小さな台地の向こうに、現在の成田山の本堂や三重塔、総門などが一望でき、参道の
大野屋の望楼が見えます。
残念ながらこの場所での成田山の記録はほとんど見つけることができません。
永禄九年(1566年)に当時の寺台城主、海保甲斐守三吉によって現在の地に諸堂が
再建されるまでは、この神明山に本堂があったと思われます。
(なお、「新修成田山史」には永禄九年というのは諸堂が整備された落慶の式典であって、
“神明山から現在地に移ったのは、天文年間のはずだ”という説が述べられています。)
海保甲斐守三吉については ⇒

神明山通りからと、電車道からの他にもう一本登り口がありましたが、現在はこの状態です。
以前は参道の菊屋別館の辺りから登れたはずです。
明治40年ごろの地図では愛宕様への階段が描かれています。


西参道から出世稲荷に通じる路地を歩くと、木々の間からこの神明山が見え隠れします。
傍からではフェンスに阻まれて見えなかった祠の中が、ここから望遠で見ると良く見えました。
成田山の学問の道 ⇒
神明山はいかにも狭い敷地であったので、永禄九年(1566年)、海保甲斐守三吉らの
尽力により、神明山の向かい側、現在の大本堂の場所に新たに本堂が建立されました。
お不動様もようやく落ち着けたことでしょう。

そしてさらに約90年後の明暦元年(1655年)に本堂が再建され、水戸光圀公(黄門様)や
初代市川団十郎などが参拝しています。
その時の本堂は、前回紹介した「成田不動尊御遷座之旧跡」から参道を進み、西参道と
台の坂に分かれる三差路に面して建つ「薬師堂」として残っています。


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元禄十四年(1701年)に新本堂が建立されたため、この建物は「光明堂」として使われ、
安政二年(1855年)にこの場所に移築されて「薬師堂」となりました。
せっかく落ち着いたお不動様ですが、50年も経ずに新本堂に遷座されることになりました。
近在のみならず、遠方からの参拝客も増えたことから、手狭になったためです。

本堂の建立と共に鐘楼や山門も新たに建てられました。
新しく建立された本堂は安政五年(1858年)に次の新たな本堂が建立されるまで、
150年以上にわたって多くの信者の参拝を受け入れることになります。

(本年7月に撮影)



お不動様も落ち着いた年月を過ごし、正徳二年(1712年)には「三重塔」が建立、享保七年
(1722年)には「一切経堂」、享保十七年(1732年)には清瀧権現堂、天保二年(1831年)
には仁王門と次々と諸堂が建立されて、大伽藍が形成されました。
その後160年近く経った安政五年(1858年)にさらに次の本堂が完成し、役目を終わった
本堂は「光明堂」となり、それまでの「光明堂」が「薬師堂」にと変わることになります。
この「光明堂」はもともとあった場所(現在の大本堂の位置)から額堂や清瀧権現堂のある
高台に引き上げられました。
ある程度解体してから組み立て直したのでしょうが、当時としては大工事だったでしょうね。
なお、この大工事の間にお不動様は江戸にお出かけになられています。
世に言う「江戸出開帳」です。


安政五年に建立された新本堂が、現在の「釈迦堂」です。
建立当時はその豪華さが人々を大いに驚かせたと言われていますが、確かにバランスの良い
重厚な佇まいは人々の信仰心をいやがうえにも高めたことでしょう。

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110年後の昭和43年、現在の「大本堂」が建立され、旧本堂は、新本堂の横に移動して
「釈迦堂」となります。

現在の大本堂は、余計な装飾を排した大伽藍です。
「高さは三二.六メートル、内陣の広さは二九六畳といわれる。成田山信仰の中心となる
場所で、内陣の中央奥の須弥檀にご本尊不動明王像が安置されている。」
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博 著 P55)

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正月には全国屈指の参拝客を集める成田山。
初詣が終わっても、一年中参拝客の途絶える日はありません。
遥か昔、京の神護寺を出てから千年以上の旅を続けて今、参拝客を静かに見守って
おられるお不動様。
これからもずっと私たちを見守り続けていただけることでしょう。

明暦の本堂はひっそりと薬師堂に ⇒
元禄の本堂-光明堂 ⇒
釈迦堂に棲む鬼 ⇒
正体見たり釈迦堂の鬼 ⇒