
こちらのご祭神は天照大神の妹神、「稚日孁命(わかるひめのみこと)」です。
前回の台方の麻賀多神社でも紹介しましたが、平安時代に記された「延喜式」に記載
されている「式内社」で、非常に格式の高い神社です。
創祀年代は不詳ですが、3世紀後半から4世紀初頭にかけての期間であると考えられます。


石造りの一ノ鳥居の右側に大きな塚があります。
塚の上には「印波国造伊都許利命(いつこりのみこと)墓」と刻まれた石碑が建っています。
伊都許利命は応神天皇の命を受けて印波国の国造としてこの地に赴き、
産業の振興などに尽くしました。
この麻賀多神社を創建した人物でもあります。
この古墳については後ほど触れるとして、まずは木造の二ノ鳥居をくぐって、
本殿へと進みます。



拝殿手前の手水盤は安永四年(1775年)のもの。
石灯籠にも同じ年が刻まれています。
この年にはアメリカの独立戦争が起こっています。



拝殿、本殿ともに立派な造りですが、残念ながら建造の年代が分かりません。
(目につく資料は全部当たってみましたが、なぜか建造に関する記述がどこにもありません。
時間をかけてじっくり調べようと思います。)
唯一、二ノ鳥居左にある「社殿葺替記念碑」の石板に、
本殿が昭和62年10月、拝殿が平成元年11月に葺替工事が行われ、
総工費が4,228,196円であったとの記述を見つけました。
鰹木(堅魚木)は6本、千木は水平に切られています。


本殿の屋根には銀色に輝く三つ巴の紋の両脇を鳳凰が固める図柄が見えます。

御神木の大杉は樹齢約600年、周囲6メートル、高さは40メートルもあり、
本社の「公津の大杉」ほどではありませんが、堂々たる大木です。

拝殿の左手にある「八代稲荷神社」と「加志波比売神社(かしはひめじんじゃ)」。
神社の奥に広く見通しの良い場所があり、3つのお社が点在しています。



拝殿の左手には祓戸神社、香取神社があり、右手奥には栗生日神社があります。

香取神社



拝殿の軒下に古い蜂の巣を見つけました。
蜂はもういないようです。
先ほどの古墳に戻ってきました。
墳墓の入り口にある「伊都許利命由緒」とある説明板が「伊都許利神社社務所」の名前で
掲げられていたり、ところどころに伊都許利神社の名前が出てくるのに、それらしき建造物が
見当たらず、鳥居を持った金比羅神社のみが墳墓の脇にあることから、“伊都許利神社は
存在するのか?伊都許利神社=金比羅神社ではないのか?”という疑問が湧き、
ネット上でもいろいろな意見が交わされています。
さて、ここで伊都許利神社と金比羅神社に関する疑問について、私見を述べてみます。
私はこの二つの神社は同じではなく、古墳にある伊都許利神社の脇に金比羅神社が
あると考えています。
まずは、神社が二つあると考える根拠について見てみます。

墳墓の下の小さな手水盤には寛文十二年(1672年)と刻まれていました。
『「伊都許利神社」「金比羅大権現」廣前』の文字が彫られています。
稲葉丹後守臣 大田○右衛門が寄進したもののようで、少なくともこの時代から
伊都許利神社と金比羅神社はこの場所に並んであったと考えられます。
(ちなみに、稲葉丹後守は佐倉藩主で老中。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、
浪士の即刻処分を避けるために諸方に働きかけた人物で、隠居後も八代将軍吉宗に
重用されました。)


頂上の石碑の隣りの碑誌は元文二年(1737年)のもの。
傍らの要約文によれば、
「稷山の東北 瀛宮の東南のこの地は 当に龍の岡(神域) 怪物や悪者は逃げ失せ
惟みるに(思えば)神のおかげで安らぎを得ている ささやかな祭りを時に行い 鎮の
守らせるために 徳の輝きひかえめに 五凝(伊都許利)の神を敬い 長い年月にわたり
執り行いつつしめば もろもろの邦(地域)共に栄える」
「山海を廻り(銘文を)撰 元文二年冬十一月 山州淀府行軍使 磯部昌言 謹んで撰ぶ」
とあります。

脇から登る階段下の石灯篭は寛政十年(1798年)と同十二年のものです。

出土した石棺

石棺は文久四年(1863年)に発掘され、2メートル四方、深さ1メートルで
石の厚さは約15センチあります。
石棺の上には小さな祠があります。


祠の中を覗かせていただきましたが、何もありませんでした。
側面には龍が刻まれていました。

木柱には「伊都許利神社」と書かれています。
立派なお社はありませんが、私はここが「伊都許利神社」であると思います。
伊都許利命の墳墓そのものがお社なのではないでしょうか。
もう一つ、私の考えを裏付けるものがあります。
それは二ノ鳥居の右に建つ昭和24年に建立された「境内無償譲與許可記念碑」の
次のような記述です。
「麻賀多神社 印旛郡公津村大字船形八三四番地
神社境内地 七七四坪 立木共 昭和二四年五月三一日
伊都許利神社 仝郡仝村仝区八二七番地
神社境内地 三七六坪 立木共 昭和二四年七月二九日」
伊都許利神社としての376坪は、およそ古墳全体の広さに一致すると思われ、
金比羅神社はその境内に合祀された神社であると考えられるのです。

手水盤の先の石棺上に小さな祠があり、古墳の上には伊都許利命の墓石柱のある、
ここが「伊都許利神社」であると、(素人考えですが)個人的には納得しています。


伊都許利命の墳墓とされる古墳には、「公津原古墳群第39号墳」と名付けられ、
横に回ると石室の入り口が見えました。
横穴式石室で、今は塞がれています。
東西35メートル、南北36メートル、高さ5メートルという大きな方形墳です。

古墳の裏斜面に回ってみると、いろいろ議論のある「金比羅神社」があります。
比較的新しい小さな石のお社です


狭く急な石段


手水盤には「伊都許利神社」と刻まれています。
これがまた混乱を招く一因ですが、奉納された年代が100年以上後であることと、
比較的小ぶりであるを考えると、わざわざ寛文二年の手水盤をどかしてまで
置くことはないとしてこの場に置いたと、素人なりに都合良く推測したいところです。


道路を挟んだ向い側の斜面は栗畑です。
あと1ヶ月もすれば毬が割れて茶色い実が姿を見せることでしょう。

推古天皇十六年(608年)、伊都許利命の子孫である広鋤手黒彦がこの地より少し離れた
台方に社殿を造営し、こちらの社殿は奥宮となりました。
伊都許利命の墳墓に関しては諸説があり、まだ謎が解明されていません。
本社・奥宮に関する種々の記述にも混乱があり、今後の研究を期待したいところです。
(このブログの記述にも間違いがあるかもしれません。判明する都度訂正したいと思います。)

※ 麻賀多神社(奥宮) 成田市船形834
京成・公津の杜駅よりコミュニティ・バス北須賀ルートで
麻賀多神社前下車