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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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寺台城の豪傑・海保三吉
戦国末期の世を風のように駆け抜けて行った海保三吉(かいほ みつよし生年不詳~元和三年
(?~1617)は、剛力で知られた武将で、寺台の高台にあった寺台城の城主でした。

海保三吉は謎の多い人物で、「新編成田山史」には次のような記述があります。
【そもそも海保三吉なる武将そのものが、かなり不明瞭な伝承的かと考えられ、その事績につい
ても、全てを史実と考えることは躊躇される。】
 (P169)

今回は、この「海保三吉」を追いかけてみます。


足利幕府と下総の結城一族との合戦 ―結城合戦・永享十二年(1440)~嘉吉元年(1441)で
結城方に与して討ち死にした里見家基の嫡子・義実と次男・家氏は、安房に逃れて安房里見氏
を興しましたが、三男の又三郎は父・家基の領地であった上総の里見邑に逃れて、上総の守護
・千葉介胤直に仕え、海保庄の領地を与えられて海保氏を興しました。

以降、海保氏は代々千葉氏に仕え、徐々に重用されるようになってゆきます。
海保氏四代の泰氏の時には下総佐倉山城に移り、嫡子信氏が千葉介勝胤と昌胤の代に執権職
を務め、さらに信氏の子の勝氏は千葉介利胤・親胤の代にも執権を務めました。
信氏の子・七代の氏之は千葉介富胤の執権を務め、成田の寺台城主でもありました。

八代・英氏のとき、豊臣秀吉の小田原・北条攻めがあり、北条氏が敗れると、九代・氏次(三吉)
は德川家に仕えたものの、後の改易等によりやがて海保氏宗家は断絶することとなります。
     
里見家基--海保氏義--氏重--氏俊--泰氏--信氏--勝氏--氏之--英氏--氏次(三吉)



                                   ( 寺台城址 )


三吉にまつわる伝承は多くありますが、代表的な二つの話を紹介します。

【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の2つ
の仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に信仰の
深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さまの脇におら
れる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】
  (新勝寺ホームページ)

この記述の後半部分、斃れた三吉が蘇生したという合戦とは、天正元年(1573)小田原北条氏と
下総千葉氏とが戦った公津合戦のことで、戦死が伝えられていた陣営に三吉が戻ったため、皆が
大層驚いたことは事実のようです。

成田山公園-115
                 (成田公園内にある不動明王三尊像)
**額堂-99
                 ( 光明堂脇にある不動明王三尊像)                    

制咤迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)が脇侍となって不動明王の左右に
控える三尊像は成田山内にいくつか見られます。
通常、明王の左(向って右)に制咤迦童子を、右(向って左)に矜羯羅童子が控えています。

成田山を深く信心していた三吉らしい話です。


三吉の剛力ぶりを示すもう一つの伝承は、前述のホームページ文章の前半部分に関わる、
成田山の仁王さまとの力比べです。

成田山の二王様は「朱振りの仁王尊」といわれていますが、かつては白木の仁王様でした。
あるとき、寺台城主だった海保三吉が成田山に参詣したとき、「私に誰にも負けない大きな力を
与えていただけたら、朱塗りを奉じたい」と願をかけました。
その帰路のこと。闇夜の中で大男が両手を拡げて三吉の行く手を遮りました。
三吉はこの大男に組み付き、信じられないほどの力で大男を投げ飛ばしてしまいます。
その時、頭上から「我は成田の仁王なり。汝の願いを聞き入れて敵一倍の腕力を授けたり。」と
大声が響きわたりました。
三吉は約束どおり仁王を朱塗りにし、仁王を投げ込んだ田を仁王面と名付け、成田山に寄進
しました。




模写 「怪談春雨草紙」中の挿絵 (市川三升 作 歌川國安 画 文政十三年ー1830)
    孝蔵(海保三吉)と仁王との格闘 (「仮名垣魯文の成田道中記」昭和55年に収録)


山門ー16
                成田山の仁王門      (2014年5月撮影)

山門ー9
                        ( 那羅延金剛[ならえんこんごう])
山門ー8
                         ( 密迹金剛[みっしゃくこんごう])

さて、三吉と格闘したのはどちらの金剛様だったのでしょうか。


【・・・それぞれにひかえたるうちにたゞ一人、土俵の上に力足をふみならしいる者あり。見るに、
その丈七尺五寸余にして、眼するどく、顔色総体朱をそゞぎしごとく、あくまで骨太にして仁王の
いけるがごとし。宵より二十七番をとるといえども、一度もまけをとらず、かちつゞけたり。見物
一同こゝろにくしとおもへども、たれ相手になるべき者もなく、口おしながらひかへゐる。この時、
桟敷より孝蔵にとるべしと下知あり。つれきたりし山伏もたってとるべしと、そのかはりには汝が
のぞみごとかなへべしとすゝむるゆへ、いまはせんかたなく、孝蔵土俵のうちにとびあがり、
たがひに式礼なし、たちあはんとせし時、孝蔵心におもふやう、なかなかかれにひきくんでは
かなふまじ、手先にてとるべしと、アイヤと声かけ。双方たちあひ、しばらくもみあふそのありさま、
竜虎の勢、されど孝蔵はわづか五尺五寸あまりの小男、かたがたは七尺五寸にあまる大の男
なれば、やゝともすれば孝蔵あやうく見へければ、見物固唾をのみ、目ばたきもせず見つめて
ゐたりしが、大の男やっと声かけ孝蔵をつかまんとするところをすかさずとって足をかけつき
けるが、なんなくかの大の男を土俵の外へおのれが力にて半身土の中へうづんだり。】


これは、七代目市川団十郎が文政十三年(1830)に書いた、「怪談春雨草紙」にある一節で、
海保三吉の伝説的武勇伝からヒントを得たと思われます。


秀吉による北条氏討伐に際して、北条方の体制は団結とはほど遠いものでした。
長い間、関東の八カ国に君臨してきた北条氏の暴政に苦しめられてきた多くの家臣の不満は
大きく、大名達の評定(小田原評定)はなかなか定まらず、秀吉軍につけいる隙を与えました。
後に「小田原評定」とは、「議論ばかりで結論が出ないこと」と揶揄されることになります。

面従腹背の家臣達につけいって帰参を呼びかけたのが徳川家康です。
千葉氏一族の大須賀氏・原氏・押田氏・土気、東金の両酒井氏等も、それぞれ領地を与えられて
德川氏の直参となりました

寺台城主であった海保英氏は小田原城に詰めていたため、殿台城主であった馬場伊勢守勝政が
城代として寺台城を守っていました。
しかし、優勢な德川勢との戦いは厳しく、馬場勝政は討ち死にし、寺台城と殿台城はともに炎上し、
あえなく落城してしまいます。
直線距離で2キロにも満たない二つの城が炎上する様は恐ろしい景色だったに違いありません。
住民はどんな思いで燃える城を見上げたのでしょう。

なお、殿台城は今は跡形もありませんが、現在の美郷台のJR線路脇にあったようです。
馬場勝政は土屋の「大宮神社」を創建した千葉氏一族の武将で、寺台城下の永興寺に葬られた
と伝わっています。


裏参道-58
                     大宮神社 (2014年5月撮影)
*******東参道ー16
                     永興寺 (2014年7月撮影)


英氏は家康に帰参しましたが、寺台城の再建は叶わず、焼け跡に屋敷を構えていたようです。
【三吉は部屋住とは云え身長七尺五寸、力量二十五人力と云われ、殊に膂力(りょりょく)が非常
に強かったので、家康は大御番を命じ別に三百石を給わり信任された。父の没後家督を相続して
四千三百石の直参となって甲斐守氏次と称するようになった。】
  
(「広報よこしば 第46号」 昭和43年7月)

7尺5寸って227センチ! 
NBAウィザーズの八村塁(203㎝)やVリーグジェイテクトの伏見大和(207㎝)よりも背が高い!
この時代にこの背丈は事実ならば怪物です。
まあ、よくある大袈裟な表現なのでしょうが、ともかく図抜けた大男だったのでしょう。
ちなみに、部屋住み(へやずみ)とは嫡男でまだ家督を相続していない者や、次男以下の独立
せずに親元にいる者を指します。
また、大御番とは、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊のことです。


大御番となった三吉は、生来の粗暴さ故の不祥事を重ねてしまいます。
房総関連の古文書や諸記録を集大成した「房総叢書」の中の「千葉傳考記」に、次のような
記述があります。

【海保三吉は、千葉家の士なり。後に召し出されて幕府の直參となり、大番組を勤む。然るに、
慶長十四年十月十六日、大番頭たる水野市正・近勝口口切腹を命ぜらる。其の故は、去月
廿九日、市正宅に於て服部牛八が久米左不治を双傷せし事あり。其の時、近勝は寺院に入
りて、陳謝する所ありしも、去々年以來、此の市正組の海保三吉・荒尾長五郎・有賀忠三郎・
世良田小傳次・小股猪右衛門・間宮彦九郎等、伏見在番中、徒然に堪へずして密々所々を
徘徊し、樊崎講といふものを催し、街中に於て双傷を遊戯とし、殊に海保は坂東の強力たるに
依りて、忍びて上京し、好みて相撲を取りけるが、遂に秀賴の中間を抛殺せり。やがて、三年
の在番終りて歸府し各々其の知行所に休息しけるところ、其の濫行露顯し、遂に死罪又は改易
となりたりといふ。この時、間宮彦九郎一人逃亡せしが、妻子を虜とせらるゝ、由を聞き、忽ち
出で自殺せり。其の外、松平九郎右衛門忠利・津野戶左門・岡部庄九郎・駒井孫四郎も連座に
よりて其の祿を沒收せらる。小斐仁左衛門は、父の忌中に密々江戶へ下りし爲め改易。藤方
平九郎・小川左太郎は罪なしと雖も、其の家僕が商人を摶殺して逐電せし故、「尋ね出し斬戮す
べし」とて、其の間のを祿收せられしが、後遂に探り出し、之を斬りて歸參する】



三吉の乱暴者ぶりは相当なもので、喧嘩で複数の武士を殺したり、相撲で相手を投げ殺したり
したと言われています。
一方で、三吉が領民に慕われていた、善政を行っていた、という記述も散見されますが、乱暴者
とする記述に比し非常に少なく、検証がむずかしいところです。

史料のほとんどは大御番時代の振る舞いから寺台での最期まで、そして彼の墳墓に関する記述
ばかりです。
三吉の領主としての姿、領民とのふれあいなどについての史料は海保家の記録として残されて
いましたが、残念ながら焼失してしまったため、今では知ることができません。
わずかに「広報よこしば」第48号(昭和43年9月)に、以下のような記述を見つけました。

【さて寺台の人々は今でも甲斐守様とか三吉様とかと尊敬しているから、豪放多く非道に出たと
伝えられた節もあるが、己が領民に対しては善根を施したから、それが子孫に伝わり今に残って
いるのであろう。】 



史料は一気に寺台城下での三吉の最期を語ります。

【これらのことで小野次郎右衛門が三吉の非道を将軍に言上したため、佐倉城主土井大炊頭
利勝に命じ御名代として篠田勘兵衛、日暮弥市の二人に大将を命じ三百騎をもって寺台城攻略
にかかったのである。】 
 (「広報よこしば 第47号」 昭和43年8月)

【それから三吉は寺台の河岸まで来て見ると橋を引いて河面には篠田、日暮両人の上使が出迎え
「御上意にて土井大炊頭名代としてわれ等両人罷り越した。それにて切腹なされ候え」と呼ば
わる。三吉これを聞いて「御上意なれば是非なし。城に入って切腹仕る。橋を渡し候え」と答えた。
これに対し「橋を渡すこと罷りならぬ。それにて切腹召され候らえ」と言うや否や三百騎の兵、三吉
を渡さじと切先をならべ、槍ふすまをつくって川端に馳せ向う。三吉これを見て幅八間の根木名川
を飛び越えながら、二十四本ひかえた槍を両手にて八本をかい掴み引折って捨ててしまった。この
勢いに恐れをなし大勢の者ども一度にどっと引き退く。しかし渡って行っては御上意に叛く。ちょうど
川辺に嶋の坊という行屋があったので、そこに立入り見ごと切腹して相果てた。時に元和三年十月
一日、三吉行年四十八才であった。】 
  (「広報よこしば 第48号」 昭和43年9月)

「行年四十八才」とあるのが正しいとすると、三吉は永禄十一年(1568)生まれ(数え年齢)という
ことになりますが、そうすると公津合戦で制咤迦童子に助けられたという伝承の天正元年(1573)
ではまだ6才ということになり、(伝承とはもともと不合理に満ちていますが)話に無理があります。

【神君海保氏ノ暴慢ヲ悪ミ、土民ヲシテ之ヲ誅セシム。三吉偶山之作村圓融寺ニ在リ、棋ヲ圍
ム。之ヲ聞キ将サニ帰ラントス。酒々井人篠田勘七槍ヲ持シ、寺臺橋下ニ隱レ其過ルヲ伺ヒ、
突テ之ヲ僵ス。今橋側松アリ血塚ノ松ト云、其所ナリト。】
  
(下総國下埴生郡寺臺村誌 明治十七年)

【海保三吉ノ遺址ハ本村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉力ヲ飽マテ強ク能ク尺ノ圍ノ竹ヲ握リテ之ヲ
潰ブス。後、力ヲ負ミ豪放ニシテ其為ス所多ク非法ニ出ツ。元和中神君小野次郎左衛門(右ノ
誤カ)ニ命シテ之ヲ誅セシム。小野氏三吉ヲ攻ム。三吉輙輙クモ屈セス。小野氏諭シテ曰、汝チ
順逆ノ分ル所ヲ知ラス、而孤城落日ヲ恃ミ強力ニ誇コルルト雖、能ク幾ハク時ヲ保タンヤ、速ニ
自衂スルニハ如カス。汝若シ我言ニ従ハゝ我汝カ為メニ墳墓ヲ營ミ、香花永ク絶エサラシメント。
三吉其言ヲ容レ割腹シテ死ス。】
   (同上)

三吉の最期については諸説あるようですが、根木名川の寺台橋近辺が波乱の人生の終焉の地
であったようです。
< 山之作の円融寺で住職と碁を打っているとき、三吉討伐の軍勢が来たとの知らせがあり、
急いで城に戻る途中の寺台橋で討伐隊と遭遇し、獅子奮迅の抵抗を続けたが、小野次郎右衛門
の説得を受け入れて切腹した>といったところでしょうか。

円融寺ー21
                          三吉が碁を打っていた円融寺


寺台橋とはどこに架かっていたのでしょうか?
寺台城の位置や、昔からの古い街道である三里塚街道の起点などから、現在の「あづまばし」
付近と考えて間違いないと思われます。

三里塚街道ー75  (上流)
三里塚街道ー76  (下流)

現在の「あづまばし」から見た景色です。
当時は現在よりも川幅は広かったようです。


三吉の墓については、明治十七年の「下総國下埴生郡寺臺村誌」に詳しく記されています。

【海保三吉墓 村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉ハ海保丹波守ノ子ナリ。天正十八年千葉氏滅ビ、
東照神君千葉氏ノ奮臣海保三吉及ビ某々等ヲ召シ采地ヲ賜フ。三吉本村ニ居ル後暴慢ニ
シテ誅ニ遇フ。茲ニ葬ムル。】
                    

【海保塚  村ノ東北ノ間ニ突出ス。四面林巒村落其間ニ参見シ、平田数百町歩一目ニ瞰下ス。
風光壮快月ニ宜シク、雪ニ宜ク、花ニ宜ク納涼ニ宜シ、本地ハ海保氏墳墓ノ在ル處ニシテ、古
松矗々林立シ頗ル名勝ノ區ナリ。】
 

【本地ハ海保氏ノ墳墓アル所ニシテ墓上巨松アリ、大サ四抱許、一幹三枝ニ分ル。三枝ノ大サ
皆二抱許、枝下ノ長サ配枝ノ風容相同シク翳欝トシテ髙ク雲辺ニ聳ユ。口碑ニ依レハ海保三吉
自劒ノトキ遺言スラク、墓標トシテ松ヲ植ヘヨ、後世該松ノ三枝ニ分ルヲ見ハ吾成佛セシナリト。
松ノ三枝ニ分レシハ其何年頃ナルヤ詳ナラス。其他境内ノ古松大サ皆二、三抱許アリ。】

                               

三吉の亡骸は焼け落ちた寺台城の出丸跡に葬られ、遺言によって墓標に松が植えられました。
昭和28年に松が枯れ、撤去のために根元を掘り起こしたところ、真下から一体の人骨が出土
し、調査した結果、言い伝え通りの偉丈夫らしい骨格で、三吉の骨であることが判明しました。
永興寺にて供養が行われた後、再び元の場所に埋葬されました。

東参道ー16
                   三吉の供養が行われた永興寺(ようこうじ)              


寺台城址の様子は、2014年7月の「成田山東参道を歩く」から引用します。

東参道ー25
東参道ー26

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、訪ねる人も無い林の中に
建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。

【後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。】


東参道ー27

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。


現在はきれいに整備されていると思いますが、約7年前の様子は寂しいものでした。



さて、最期に三吉と成田山の関係について見てみましょう。


【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の
2つの仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に
信仰の深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さま
の脇におられる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】

                            (新勝寺ホームページ)

【伝承では成田山新勝寺は、現在の成田市寺台の地にあった寺台城の城主海保甲斐守三吉(?
~一六一七)の肝入りで、永禄九年(一五六六)六月二十八日に現在地で落慶供養を行ったと
いわれている(「新修成田山史」三一頁)が、これが他所(公津ヶ原)からご本尊を遷座しての入仏
落慶供養であったのか、あるいはすでに現在地に遷座していて、新たに本堂や他のお堂を整え
てからの落慶供養であったのか判然とせず、またこのときの寺台城主は海保三吉ではなく馬場
伊勢守勝正(?~一五九〇)であったはずであり、混乱しているところがある。】

                           (「新編成田山史」 P91~92)

【この城は、千葉氏一族出身で家臣であった馬場氏の居城(詰の城であった)と伝承され、豊臣
秀吉の天正十八年(一五九〇)の小田原攻めのとき、城主馬場伊勢守勝政が千葉氏とともに
北条方に加わって敗死し、そのために城は徳川家康から海保三吉に与えられたと伝えられて
いる。これによれば海保三吉は、馬場勝政の後に寺台城の城主になっていたことになり、小田原
攻めの後となるので、永禄九年(一五六六)に新勝寺落慶供養が行われたとすれば、そのときの
城主は勝政であったとみられる。後の者が寺台城の城主ということからだけで単純に海保三吉と
記してしまったのであろう。】
  (同 P149)

成田山新勝寺としては、海保三吉が新勝寺を現在地に移し、諸堂を整備・建立したとする説には
疑問を持っているようですが、ホームページでは三吉が諸堂の建立をしたと記しています。
また、馬場勝政は寺台城落城の時点では殿台城の城主であって、寺台城主は海保英氏でした
(当時、馬場勝政は寺台城の城代家老)。
つまり、馬場勝政の戦死にによって海保三吉が寺台城主になったのではなく、秀吉の小田原攻め
の時点での寺台城主は三吉の父・英氏だったのです。
海保氏が寺台城主として記録に表れるのは、三吉の二代前、英氏の父・氏之ですので、海保氏が
永禄九年の落慶供養に大いに貢献した可能性はあると思います。
記録には、氏之は千葉介富胤の執権を務めたとありますが、千葉介富胤が下総千葉氏宗家の第
27代当主となったのが弘治三年(1557)ですから、永禄九年(1566)の新勝寺落慶供養に向け
て氏之が寺台城主としてまた千葉氏執権として大いに貢献したと考えることに無理はありません。

私は、年代的にみて落慶供養の主役は三吉ではなく、氏之であったと考えます。
三吉が仁王像を朱塗りにしたのは事実のようですから、史料の記述の際に寺台城主として知名度
のある三吉の業績と記してしまった、ということではないか、と想像します。


「新編成田山史」は、海保三吉について一項を割いています。
【海保三吉 武士・武将による信仰の最後として、海保三吉の霊験譚について述べる。 海保三吉
は、現在の寺域に隣接する寺台にあった寺台城の城主で、甲斐守を名乗った。 ただし、これは
官途名乗りであって、朝廷の任命する国史としての実質や、甲斐国(現山梨県)との関係は一切
ない。三吉は当山の諸堂を再建し、永禄九年(一五五六)六月二十八日に落慶入仏供養を行った
と伝えられる。 これはまた一説に、同元年に係るともいう。 これより先、天文七年(一五三八)に
生実御所源義明と相模小田原の北条氏綱とが戦ったとき、堂宇や文書・記録類がことごとく失わ
れたといわれており、それを復興したということであろう。
具体的な話としては、かつて当山の仁王門にある密迹・金剛の仁王尊像が素木造りであったの
を、大力を授かった礼として朱塗りに改め、田地を寄進したという。この田地は寺台にあって、
小字名を仁王面というが、おそらく仁王免であろう。】 
 (P153~154)


部屋住みでありながら家康に引き立てられて京・伏見の御番頭となった三吉は、すっかり舞上
がってしまったのでしょう。
勢いづいての乱暴狼藉を注進され、亡くなった父・英氏の跡を継いで寺台城主となったものの、
討手を差し向けられて無念の切腹をした三吉。
制咤迦童子による蘇生伝説や、仁王との格闘伝説が物語るように、成田山を深く信仰した三吉。
領民に慕われ、後世にまで語り継がれる一面を持つ三吉。

私は、力を持て余してついつい乱暴を働いてしまうが、直情径行型の気のいい大男(昔はこんな
ヤツがいたなあ)を想像してしまいます。


***境内ー20






【 取材後記 】

成田山東参道の取材中、細い山道を登った先に見た寺台城址。
7年後に城主だった海保三吉を追いかけるとは思ってもみませんでした。
この人物に関する史料には混乱が多く、同一史料中にも年代や人物等に関する記述の矛盾が
みられて、大いに苦戦しました。
寺台城址はずいぶん長い間工事が行われているのが見えていましたので、今ではきっときれい
に整備されたことだろうと思います。
残念ながら今の私にはとても城址まで上ることはできませんが、整備されたもののふの夢の跡を
見てみたいものです。

さて、海保三吉を説得して切腹させたと伝えられる小野次郎右衛門については、三吉と共に伏見
にて御番を務めていた同僚であり、三吉の乱暴狼藉を上司に注進した人物でもあります。
小野派一刀流で知られた剣豪であり、三吉の後に寺台領主となりました。
三吉に絡むこの人物の生き様もまた、大変興味が湧いてきます。

東参道ー7
                    (小野次郎右衛門父子の墓 ― 永興寺上)

いつか機会を見て追いかけてみたいと思います(また苦戦するような予感がしますが・・・)。


テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

人とその歴史 | 13:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
コメント
このブログに追い風が吹きますように。
久しぶりの歴史的史料のようなブログの更新、ありがとうございます。
このこの労力に見合う追い風が吹くことを祈ります。
2021-03-18 木 19:23:59 | URL | 岡村里美 [編集]
Re: このブログに追い風が吹きますように。
岡村 様
ありがとうございます。
今回は一時迷路に入ったような状況になり、掲載を諦めかけた
こともありましたが、何とかまとめることができました。
前回「人とその歴史」で取り上げた「成田五郎」の時も感じた
のですが、歴史上に実在した人物を追いかけるのは楽しい反面、
常に未達成感が残ります。
例えて言えば、ジグソーパズルの最後のピースが見つからない、
ような、焦りにも似た思いがあり、もっと探したい、調べたい
と、なかなかまとめることができません。
海保三吉もまたいつか追いかけ直したいと思っています。
2021-03-19 金 00:24:02 | URL | sausalito(船山俊彦) [編集]
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