
下福田の「正福寺」は真言宗智山派のお寺で、ご本尊は「阿弥陀如来」です。


「正福寺」へと向かうこの坂はすごい傾斜で、まるで登山のようです。
顔を上げても先が見えない急坂は150メートルほど続きます。

坂を登り切ると左手に墓地が広がっています。
新旧の墓石が並んでいて、古い墓石には、寛政、文化、文政、天保、慶應などの年号
が記されています。

木々の間から、遠く新妻、芦田、荒海方面が見えます。

お寺が見当たらないので右にしばらく進むと、下に向かう長い石段がありました。
せっかく急坂を登ってきたのに・・・と思いながらも、ともかく石段を下りてみました。


89段の石段の下に「正福寺」がありました。
どうやら裏参道から来てしまったようです。
明治十七年(1884)に書かれた「千葉縣下總國下埴生郡下福田村誌」には、「正福寺」
について次の一行のみの記載があります。
「正福寺ハ本村ノ南方ニ在リ、之亦旧記ナシ建立不詳。」
(「成田市史近代編史料集一」に収録)
また、「成田市史中世・近世編」には、
「下福田村の正福寺はもと南羽鳥村の小字正福寺にあった寺で、遷座年代など不詳で
あるが、天正十九年の「福田郷御縄打水帳」にその名がみえるので、これ以前のことに
なる。」
「本尊は阿弥陀如来で宝暦三年(一七五三)に本堂が再建されている。」 (P786)
とあり、「成田市域の寺院表5-1」には、真言宗で飯岡村の永福寺の末寺であり、創建は
天正十九年以前で、南羽鳥村から遷座したと記されています。
天正十九年は西暦1591年ですから、それ以前の創建となれば425年以上の歴史を有し
ていることになります。


本堂の鬼瓦には、真言宗智山派の宗門である桔梗紋があります。

「延享元甲子五月」「當寺親住法印尭辧」と記された「宝篋印塔」。
延享元年は西暦1744年にあたります。
「宝篋印塔」は、本来は内部にお経を納めるものですが、石塔の場合は内部にお経を
納めることは無いようです。


「法印筐塔」に並んで立つ「地蔵尊」。
寛文十年(1670)と読めるような気がします。


境内の一角に数基の石仏と墓石が並んでいます。
大きな板碑状のものは明治三十三年(1900)のもので、二つの戒名が刻まれています。
右側にある3基の石仏の内、後ろにあるのは「如意輪観音」で、「天明」(?)と記されて
いるように見えます。


本堂に向かって左側には「大師堂」があります。


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「大師堂」の右半分には十体の木像が並んでいます。
一見して「十二神将」や「天龍八部衆」を思い浮かべましたが、傷みが激しく、また持物が
ことごとく欠損しているので、判別はできません。
いずれも鎧のようなものを着けているように見えるので、二体が欠けた「十二神将」では
ないか、と思うのですが・・・。


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境内奥に並ぶ墓石群。
延宝、元禄、享保、明和、安永、文化などの年号が読めます。


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こちらの墓石群に刻まれている石仏の多くは、微笑むと言うより、笑っているように見えます。
微笑むような石仏は見ますが、神仏習合の産物とも言える「七福神」の他には、笑う石仏は
見たことがありません。
もちろん、これは風化やカビのなせる技ですが、私には、石仏が何やら語り合っている内に、
誰かの言葉に思わず皆が笑ってしまったような景色に見えました。


二つの墓石群の間に、山頂に向かって道のようなものがあります。
枯木や竹が道を塞ぎ、足許が滑ります。



薄暗い竹やぶの中を蜘蛛の巣にからまれながら登ると、小さなお社がありました。
鳥居もあって鞘堂に守られていますが、神社の名前は分かりません。


目を上に向けると、10メートルほど先に祠がありました。
「天明三■卯二月吉日」と刻まれています。
天明三年(1783)の干支は癸卯(みずのと・う)です。

祠まで登ってみると、さらにその奥に「辧財天」と刻まれた祠が・・・。
明治三十七年(1904)の文字と、とぐろを巻いた蛇が描かれています。
「弁財天」はもともと「弁才天」と表記されていたものが、江戸時代になってから金運・開運の
神として信仰されるようになり、「弁財天」と表記されることが多くなりました。
「弁才天はサンスクリット語でサラスヴァティーといい、その昔インドにあった同名の河(現在
は存在しない)を神格化したもの。もともとは河川の神であるが、川の流れる音を音楽に例
えて音楽の神となり、さらに音楽は流暢な言葉に通じることから弁舌の神になり、雄弁さは
頭の良い証拠でもあるから学問の神となり、さらには幸福や財宝、子宝を授ける神として
信仰されるようになった。」
「このサラスヴァティーが仏教に取り入れられ、すぐれた智慧をもって雄弁に語ることから
「弁才天」と名付けられ、雄弁、智慧、音楽、豊穣などの神になったのである。」
(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 幻冬舎 2004年 P170~171)
もともと川の神であったことから、インド古来の蛇・龍信仰と結びついて、蛇や龍が「弁才天」
の使いだとされています。



大正二年(1913)の「印旛郡誌」は「正福寺」について、次のように書いています。
「下福田村字表にある眞言宗新義派に屬し飯岡村永福寺末なり本尊は木造阿彌陀如来
にして寶暦三酉年再建立堂宇間口六間三尺奥行五間境内二百二十九坪民有地第一種」
再建立された宝暦三年は、西暦1753年になります。
前々回に訪ねた「星光院」と同じく、「印旛郡誌」の新義真言宗から、現在の宗教法人名簿
では真言宗智山派へと表記が変わっています。
下福田の静かな田園を前に、背後には山を抱いた「正福寺」には、420年以上の歴史が
眠っています。


※ 「正福寺」 成田市下福田248