
「安興寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「東光山」。
正式には、山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と称しますが、「東光山安興寺」と
略されて呼ばれています。
ご本尊は「釈迦如来」です。

参道の入口に建つ「題目塔」。
正面には「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には「東光山安興寺」、「當山丗七世
嗣法」と読める文字が刻まれています。
紀年銘は「享和三癸■」とあります。
享和三年は西暦1803年になります。


すっきりした、それでいて風格のある山門です。
山門脇の説明板に「安興寺縁起」が書かれています。
『当山は、山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と命名。通称は「東光山」「安興寺」
を名称とする。淵源は、大同二年(八〇七年)、岩部城地に創建された戒律勅許の「律宗・
大円院」で、当地方の行政機関を兼ねた拠点として戒律相伝の律師(官許の僧侶)により、
鑑真和上(奈良・唐招提寺開祖)を開基に仰いで創建されたと伝えられる。
その後、貞応元年(一二二二年)、千葉氏の一族岩部五郎常基が岩部城築城にあたり、
現在地に移設し、名称も「千葉山」「釈尊勧請寺」として整備し創建した。
時は下って元徳二年(一三三〇年)、大円阿闍梨日伝上人(平賀・本土寺第三世)に
よって日蓮宗に改宗され、名称も現在のものとなった。
第二世日義上人の代には、千葉家から供養料として田畑、寺領地が寄進され「境内地
二千七百五十坪、供米二十石」とある。
第三世日憲上人の代には、時の将軍足利義満公との有縁の誼をもって奥方懐妊の際、
当山勧請の釈迦尊像に祈祷を修し男子誕生の慶事をもって二十石の御朱印地を受領。
そして「塔中三十七坊、末寺七ヶ寺を擁し、檀家岩部一円に及ぶ」とある。
第二十世中興日秀上人の代には、徳川三代将軍家光公からも十一石五斗の御朱印地
が下付された。寛文五年(一六六五年)以降、不受不施派に属した為、幕府の弾圧を受け、
二十余年間無住職状態が続き、末寺、支配寺坊の離脱、火災による堂宇焼失等が相次ぎ
本来の偉容から衰微した。
然るに、歴代上人の名跡によって、濫觴以来実に千二百年、現在地での法灯連綿七八〇
年余、有数の古刹にして、現在の第五十四世に継承されている。』
なんと、1200年余の歴史を有し、現在地に移転してからでも790年余、日蓮宗に改宗して
から680年余という古刹なのです。
現在地に寺を移した「岩部五郎常基(いわべごろうつねもと)とは、下総の豪族・千葉常房の
子で、後に戦国末期までの約500年間にわたって小見川一帯を支配した粟飯原(あいはら)
氏の祖となる人物です。

「栗源村大字岩部字西崎に在り域内四百五十坪日蓮宗にして釋迦如来を本尊とす寺傳に
曰く貞應元年之を開基して千葉山勸淨寺と稱し眞言宗たりしが元徳二年三月之を再建し
今の宗に改め僧日義開山たり日義は日傳の弟子なり初め鎌倉妙本寺に在り之に師事し
後ち本寺を開く千葉氏爲めに寺地を寄附す亞て日憲なるもの之を中興し足利義満亦寺地
若干を寄す昔時は古記古寶等極めて多かりしが大永中寺主なく寺藏を助澤村長榮寺に
藏し火災に罹りしを以て之を失ひしと天正中鳥居氏此地を領せしとき悉く寺領を没し慶安
二年十一月徳川家光更に朱印地十一石五斗を給す境内巨杉數株あり大なるもの圍二丈
に埀んとせり」
「千葉縣香取郡誌」には「安興寺」についてこのように記述されています。
岩部五郎常基によって移設された時を開基としている他は、山門脇の説明板とほぼ同じ
内容です。
なお、「安興寺」のご本尊を「一塔両尊四菩薩」としている資料がありますが、門前にある「安興寺縁起」には、
釈迦如来像を「千葉山以来の最古の勧請仏」と記されていますので、「香取郡誌」にあるとおり「釈迦如来」が
ご本尊で良いのではないでしょうか。
日蓮宗の「本尊」の考え方は難しいもので、自信はありませんが、「一塔両尊四菩薩」とは、中央の宝塔に
南無妙法蓮華経と書き、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が一つの蓮台の上に乗り、さらに左に
浄行菩薩、安立行菩薩を、右に上行菩薩と無辺行菩薩を置くもので、「釈迦三尊」や「薬師三尊」と同じような
安置の形式なのではないでしょうか。

この立派な題目塔は平成5年に建立され、「庫裡新築落慶記念 東光山五十四世日園」
と記されています。

こちらの題目塔には、裏面に「昭和貮年四月五日建立」の文字と身延山参拝団体人名が
記されています。

昭和3年の「畔蒜佐市君碑銘」。
畔蒜佐市(1858~1926)は、岩部村外六ヶ村連合役場の書記を務め、後には栗源村の
村議収入役や助役を務めた人物です。



香取市指定天然記念物の大杉。
寺の縁起書には、樹高は約50メートル、周囲目通り約6メートルと書かれています。
中興二十世日秀上人の時代に植樹されたとありますので、樹齢は約400年になります。

山門をくぐった左手にある「慈母観音像」。
説明板には『子供を思う親ごさん達の喜捨によって建立されたので「かあさんかんのん」と
名乗られました』と書かれています。



手水舎の中の手水盤には、「文化元甲子年三月吉祥日」と刻まれています。
文化元年は西暦1804年にあたります。


手水舎の後ろにある小さなお社は名前が分かりませんが、隣に古い井戸ポンプがあるので、
「水神様」ではないでしょうか。



「安興寺」が所蔵する、狩野派・勝運の筆になる「涅槃図」は、香取市の有形文化財に
指定されていて、毎年二月十五日の「涅槃会」に公開されます。
縦415cm、横287cmの大幅で、享保十六年(1731)の作です。
また、寺宝となっている「日蓮上人の真筆」は、法華経譬諭品の断簡で、「栗源町史」に
掲載されている写真を見ると、
「・・ 舎利弗 汝於未来世 過無量無辺 不可思議劫 供養若干 千万億仏 奉持正法
具足菩薩 所行能道 当得作仏 号日華光如来 ・・」
の部分が書かれています。

本堂脇に建つ大きな題目塔。
「南無妙法蓮華経」の脇に「一天太平 四海静謐」、反対側に「身延山参拝記念碑」、下に
「身延山七十九世 日慈」と記されています。

境内の一角にひっそりと建つお堂。
少々荒れていて、名前も分からないお堂ですが、このお寺が律宗であったころの名残りで、
「大師堂」ではないかと勝手に推測しました。


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裏手には墓地があり、その先にはのどかな田園風景が広がっています。
古い墓石には、延宝、宝永、宝暦、安永、享和、文化、天保などの年号が見えます。


本堂の裏にある柿の木には熟した実がたわわに実っています。
遠くの空を成田を飛び立った旅客機が横切って行きます。


本堂の鬼瓦には千葉氏一族に見られる多曜紋の一つ、「十曜紋」が見えます。
これが岩部氏の家紋だったのでしょうか。
大棟には日蓮宗の宗紋の「井筒に橘」が並んでいます。
昭和49年に編さんされた「栗山町史」には、「安興寺」の苦難の歴史には触れず、簡潔に
次のように記しています。
「寺宝に日蓮の真筆(断片)外古文書多し、大同二年九月唐僧鑑真和尚の創建、貞応元年
(一二二〇)岩部五郎常基の菩提寺となり、真言宗、千葉山勧請寺と称した。
元徳二年(一三三〇)日蓮宗に改宗、寺名改称、足利義満将軍の奥方の安産祈願寺となり
以来同氏より二〇石五斗、徳川家康より十石五斗の朱印地を寄進された。」 (P152)

大正七年(1918)の「玉姫明神記」。
「安興寺住持観了が村内外の養蚕家と謀り養蚕守護の霊神として玉姫明神を祀った記念碑」
(栗源町史 P115)



どこから眺めても、大杉が目に入ります。
平成26年5月15日の「広報かとり」に、この大杉のことが書かれています。
「近年、樹木医による専門調査を行った結果、樹高は28m、胸高の周囲は5.65mを計測
しました。また、枝下の高さは6.7mで、枝張りは北へ12.8m、南へ13.9m、東へ10.2m、
西へ11.8mです。」
「まっすぐに伸びた幹と、そこから四方に張り出した湾曲した太い枝、縦に深く刻まれた樹皮
が、古木の力強さを感じさせます。遠望すると周囲の樹木よりも頭一つ抜き出ていることが
わかります。」
正確な計測も良いですが、この大杉の根元に立って見上げる時に感じる迫力は、案内板にある
公称の「樹高約50メートル」の方がしっくりします。
広い境内は手入れが行き届いています。
ちらりと見えた本堂の内部では、大勢の檀徒が集まって法話を聞き入っていました。
この古刹には長い年月にわたって続いてきた檀徒とのつながりが、大杉のように今もしっかりと
根付いているようです。

※ 「東光山安興寺」 香取市岩部1306